『この国のかたち』2 
2009/02/28(Sat)
司馬遼太郎著 『この国のかたち』2 を読む。

 この本も23の短文が編集されている。
 どの文もいろいろなことを教えられるのでいちいち記録したいが、昨今の官僚の気分の悪くなるような報道を見るにつけて、江戸幕末の官僚、川路聖謨(かわじとしあきら)という人についてかかれた「江戸風景」について、記録したい。
 彼は、勘定所あがりの役人で江戸開城の日、ピストル自殺をして幕府とともにみずからをを葬った人だという。
 彼の父は下谷に住む浪人であったが、聖謨は俊才を見込まれて長男ながら川路家に養子に行き17歳で勘定所の試験を受け合格した。合格した川路は、いきなり支配勘定出役といういわば高等官最下級になり、養父や実父より豊かになった。そして、21歳で本役、31歳で勘定組頭格、40歳で佐渡奉行になり、奈良奉行、大坂町奉行、勘定奉行、外国奉行を歴任し開国前の1853年、ロシアのプチャーチンの長崎渡来のときも幕府を代表してかたく国是を守りつつも縦横に交渉して外交史上に大きな足跡を残したという。
この話の中で、徳川家の立場と特徴が浮かび上がってくる。徳川は諸大名が藩校をつくり学問を奨励したなかにあって学問を推奨しなかったために勘定所がその役割をはたしていたとか、あるてんおおらかで、勝海舟やこの川路のようにもともと武士ではなかった人が旗本の株を買い直参になるようなことがわかっていたにもかかわらずこういった人の中に逸材のいることを知っていた気配がありそれを用いたといったことである。
「川路はじつにみごとな和文の書き手であった。」ともいう。公務のあいまに感想と観察の日記を書き続け『島根のすさみ』・『長崎日記』・『下田日記』などを書き、これらは江戸期の行政者の気息をしるのに得がたく、また文学的価値も高いという。

 こういった逸材が行政の中で力が発揮できればと願わずにいられない。

 そういえば古い話になるが、広島市の教育委員会に役所の中で上下に尊敬される役人がおられた。定年後のある日、新聞にその人の生い立ちについての記事が大きくでていた。
原爆孤児であった彼は、駅の掃除をしていた他人の婦人に育てられた人であったという。
記事を読んだ後、聞いてみると市役所の試験に合格し、保証人を立てなければいけないとき、私に保証人はいません採用したのが教育長さんだから教育長さん保証人になったくださいといわれたということでした。そんな人のことなども思い出した。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
<<『この国のかたち』3 | メイン | 『この国のかたち』1>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/202-13ea57d5

| メイン |