『大河の一滴』
2009/04/08(Wed)
五木寛之著 『大河の一滴』 を読む。

1998年出版。

五木寛之は、人の弱いところ、貧しさや、心の弱さ、体の弱さ、環境の悪さ、いろいろなものに恵まれない人に常に思いを傾けて語っている。最初はときとして退屈なときもあるが、終盤に差し迫るにしたがって、深く仏教の本質に触れることができる。

 「面授が伝えるいきいきとした心」
 「『出家とその弟子』のちょっとした対話」
 「いつかおとずれてくる本当のさびしさ」
 「優雅なる下山のやりかたを求めて」


これらの章は、倉田百三の『出家とその弟子』についてかかれたものだ。
この作品は、いまも本棚のすみにあると思うが、私は高校生のころ読んだので、その書の姿については思い出すことができる。
戯曲である。

面授という聞きなれない言葉について、

≪言葉には、人間の肉声から伝わる言葉と、文字を通じて伝わる言葉と、二つあると思います。・・・・要するに人間と人間が向きあい、お互いに息づかいのきこえるような距離でもってなにかを学び、なにかを伝え、そしてなにかが伝えられる。こういうことを面授といいます。≫という文面で書き始められている。

ところが、五木寛之は、この『出家とその弟子』の対話の文面からは面授という感じを受けるというのである。
唯円が感じているさみしさということについて親鸞に質問するくだり。
五木寛之は、彼がそのようすを彼なりに再現して語ってくれる。するとまさしく、そのときの五木寛之の文面から読んでいる私も親鸞を目の前にしてお話を聞いているような気がして深く胸にしみとおるのである。ただただ親鸞の面差しを見上げて感じ入るのみである。
五木寛之は、この書によって面授されるように読めるような文章について時間をかけて研究したのだろうと思える。
ときとして、映像を見るように感じる文章に出会うことはあるが、たしかに面授するという感じの書にはあまりであったことがないような気がする。(そういうことにこだわって読んだことがないだけかもしれないが)

五木寛之はこういう文章が書けるようになりたいのべる。こういうふうにして、ひとびとを励まし慰めたいとの想いがあるのだということを読んでいて感じる。

平成の蓮如様かもしれない。
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