『最後の将軍』
2009/07/26(Sun)
司馬遼太郎・著 『最後の将軍』 を読む。

最後の将軍慶喜は、御三家のひとつである水戸家に14男として生まれる。
水戸家は藩の尾張・紀州より石高も少なく中納言。
しかし、参勤交代の義務が無く、江戸藩邸に常住する特権が与えられていた。
そのことが江戸市民をして副将軍と言わしめた。 
 
父親は豪胆で名の通った斎昭、母親は将軍家慶の正室の妹である有栖川宮家の王女美貌と聡明で定評のある登美宮吉子。

11歳のとき御三卿のひとつ一橋家に養子に入る。

司馬遼太郎はこの頃の慶喜の気性を

 ≪慶喜はいわば百才を持って生まれたが、唯一つ、男として欠落している資質があった。それは、物事に野望を感じられぬということであった。慶喜自身、世子や将軍になりたいと思ったことが一瞬も無い。≫

また彼の思いを

 ≪慶喜は、思った。朝野の憂国者たちは、慶喜を世子に立て、将軍名代という資格の元に日本の総指揮者たらしめようとしている。が、慶喜自身は望まない。早熟なこの男は、この点で人の老成期のような韜晦逃避の心がある。≫

慶応2年7月20日、将軍家茂が死んだが、次期将軍が決まっていないためその死は極秘にされていた。次期将軍を決めるにあたって、幕臣は彼を説き伏せるのに困難を極めた。
やっと、

 ≪「将軍職は継がぬが、徳川宗家は継ぐ。」・・・徳川宗家は私的な存在である。例え徳川幕府が滅びようとも、家系は別であり、先祖の祭祀をするために継がねばならぬ。これは私的な事項に属する。将軍職は公的なものである。切りはなして考えたい、というひどく分析性に富んだ論理を駆使していた。≫

徳川宗家が、宗家の跡目だけを継ぐということが、朝廷への事務手続きに過去なかったことなので、幕臣も当惑したが、慶喜はまるで百年も役人家業を務めていたかのようにものに慣れた調子でそのやり方を教えた、という。

慶喜はこの年の12月5日、十五代将軍になった。
征夷大将軍、正二位、現大納言兼右近衛大将源氏の氏の氏の長者、両院の別当。
家茂が死んでから150余日、この将軍空位期に幕府の運命は尽きようとしていた。
この20数日あと、佐幕派の孝明帝が病死した。

慶応3年10月15日大政奉還の意思が朝廷から許容された。
12月9日王政復古の大号令が渙発される。
慶応3年12月12日からの都落ち
明治元年2月12日、江戸城を出て上野寛永寺大慈で謹慎。
4月11日、勝海舟をして江戸城を明け渡しめ、官軍が入場する朝、謹慎地の水戸へむかうべく江戸をたつ。
明治2年9月謹慎を解かれ、その前後徳川の新封地静岡に移る。
時に33歳。
その後、趣味の世界に生きる。
大弓、鉄砲猟、放鷹、宝生流の謡曲・写真・油絵(とくに絵は好きで、画材まで自分で作ったりした)新聞を読んだり、維新の頃の本を読んだり、刺繍をしたりした。
明治35年、徳川宗家家達とは別に一家を立てるべく内勅があり、華族に列せられ、公爵を授けられる。

 ≪明治43年、無政府主義者幸徳秋水がその同士11人とともに天皇暗殺を謀議した疑いで逮捕されたとき、慶喜は天皇とその制度もいずれは自分や徳川家とおなじうんめいになるものとおもい、子女を呼び、
「これからの世に生きるには、女といえども手に職をつけたほうがいい」
と、訓戒した。慶喜が自分の子女を訓戒したのは、あとにもさきにもこのときがただ一度きりであった。≫

 大正2年11月21日午前4時10分息を引き取る。


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