『草の花』
2009/09/12(Sat)
福永武彦著『草の花』を読む。

 1954年の作品。

 人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し
              ペトロ前書、第一章、二十四

 聖書の一節が目次の前ページに引用されている。
この引用は、題名『草の花』との関連であろうが、作品の内容からするとすこし違和感がある。


 サナトリウムで同室の汐見茂思という男性と知り合い親しくなるが、汐見は手術を受けたいと申し出て、手術はうまくいかず死んでしまう。
 汐見は自殺をしたのではないかと思う。
 もしものことがあったら枕の下のノートを2冊を君に上げるよ、といわれ、そのノートの内容がこの作品の大部分を占めるという構成になっている。

 汐見茂思は、学生の頃、おなじ弓道部の後輩の藤木という男性に心引かれる。藤木が病気でなくなり、残された母親と妹をいつも訪ねていたが、妹の藤木千枝子にその想いが移行する。

 しかし、千枝子は熱心な無協会派のキリスト教に心酔し始め、汐見を誘うが汐見は自分の孤独を愛してそういったものにすがろうとはしない。
 また、キリスト教がしっかりした組織を持ちながら、戦争に反対の運動をなぜしないのかとのくやしい気持ちも持っている。
 そういった汐見から千枝子ははなれていき他の男性と結婚をする。
 その後、汐見は戦争に徴兵され、そのあと病気になり、洗礼を受け洗礼を受けたことを後悔しながらサナトリウムでの生活を送るが、結局自殺をしようとしたのではないかと思わせるような手術を受けて死んでゆくのである。
 読み終わり千枝子を探しだし、汐見ガ亡くなったことと、ノートの事を手紙で知らせる。
 千枝子から、今も忘れえずにいることや、別れたことにいくらか後悔もしていることなどについての返信を受け取る。

 ≪戦争に対する恐怖の第一は、生理的な死への怖れ、自我の消滅に関する原始的な本能だったろうが、第二に、僕の場合には、人を殺すことの怖れも同じ程度に混ざり合っていた。もとより僕は自ら人を殺す意志はない。が、上官から強制され、不可避的な局面に遂いやられて、或いは自分が死ぬか敵が死ぬかの局面にたたされて、果たして正当防衛の名の下に相手を殺し得るか。自分が死ぬのは厭だったけれど、人を殺すというこの恐るべき言葉は、僕の良心を極度にまで激昂させるのに充分だった。それに敵、・・・・敵とはなんだろう、僕が自ら選んだのでもない敵、何故につまらないイデオロギーの相違から、人は相互に殺しあわなければならないのか。・・・・・・・・≫

 兵役を逃れられない若者の心情を述べている。

 死生観、宗教観、こういったものをみずみずしく描いていて久しぶりに純文学にふれた気がする。
 上記の戦争に関する記述では、当時、これだけのことをハッキリと述べていることに改めて、私たちはこういった作品に影響されながら大人になっていったことに思いを重ねる。



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