『歴史と視点』私の雑記帖
2009/11/29(Sun)
司馬遼太郎著 『歴史と視点』私の雑記帖 を読む

 きょう夫が目の手術のために入院した。
 病室に案内され、あれこれ済ませてほっと一息、
 
 病室は7階。
 エレベーターであがって出たところに視界のいい大きな窓がある。
 7階からの視界は美しい。
 足下のたっぷり水量のある太田川の流れを隔てたあたりに平和公園の原爆資料館が見える。公園のこんもりと紅葉した木々の向こうに商工会議所の黒いビルをバックに原爆ドームのドーム部分が見える。
 そして、そのずっと右奥にビルの隙間から市の体育館グリーンアリーナの緑の屋根も見える。この体育館の東に隣接して中央図書館があり美術館があるはずだ。そこは日露戦争の時に大本営の宿舎などが置かれたあたりということで井戸の跡があり城南どうりを車で走っていると小さな石碑が建っているのがわかる。通りの名前のとおり道路の向かいはお堀に囲まれたて毛利輝元が築いた広島城だ。

 原爆ドームと大本営跡。
 夫が入院のためのオリエンテーリングを受けている間に読んだ『歴史と視点』の最初の作品「大正生まれの『古老』」に語られる太平洋戦争と日露戦争の面影をなぞることができるこの窓の風景を見ながらから小さな広島の街の歴史を思う。

 司馬遼太郎は大正11年生まれ。
 グアム島から出てきた横井庄一さんについていくつかの新聞社から大正生まれだからというような理由でコメントを求められたことについての言及から始まる。
 横井庄一さんの生きざまは、「戦陣訓」の成せるわざとマスコミは騒ぎ立てる。しかし、「生きて虜囚のはずかしめを受けるな」という「戦陣訓」についてマスコミが取り上げるほど軍隊においては意味を持ったものではなかったという。
 日露戦争での日本の捕虜の扱いはよく知られている通りだが、日本軍の捕虜は三千内外だけど収容所での待遇改善要求をして騒いだりもしているようだ。
 軍閥にこの国を占領されてしまっていた昭和十年前後以後の国家というのは、あれが国家だったのかと思われるほどインチキくさい。
 そのインチキくささゆえの「戦陣訓」。
 海軍・陸軍の参謀についての愚かしさをいつものごとく語っている。
 いつもにない言葉として、反戦を表明する言葉として、「戦争はイヤですね」というような言葉ではなく、「日本は地理的に対外戦争などできる国ではありませんね」といってもらいたいと述べる。
 
 そして、反戦のアジビラの文体に太平洋戦争の集団的政治発狂の文体を見る。と述べているところは共感できる。
 最近、小学校の学級崩壊の話を聞くことがあるが、ふと、教育界の中にも集団ヒステリィーが起こる要素があるのでなければよいがと密かに思う。
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