『回転木馬のデッド・ヒート』 3
2009/12/09(Wed)
村上春樹著 『回転木馬のデッド・ヒート』の続きを最期まで読む。

  「嘔吐1979」
  「雨やどり」
  「野球場」
  「ハンティング・ナイフ」

 「嘔吐1979」は、日記を一日も欠かさずつけている男性が、彼の吐き気が1979年の6月4日(晴)に始まり同年の7月15日に終わったという。その間、彼のところにいたずら電話がかかってきていたが、そのいたずら電話と、吐き気とがどう関連しているのか分からなくて混乱しているという話である。
 この、作品ではこのタイトルについて思いをめぐらす。
 
 私が、大学に行っていた頃、大学の先生にしては、毎日のように決まった時間に出勤し、夕刻5時過ぎに帰宅される先生がおられた。
 私の学部の先生ではなかったが、私は、入学時からその先生の研究室を自分の控え室のように使わせていただいていた。勿論立ち寄らない日のほうが圧倒的に多かったのだが。
 
 私は国文科であったが、社会教育を自分自身の研究課題にしていた。
 研究課題というのはまったく大げさで、社会教育は研究するほどのものではないが、必要だと考えていたぐらいのことだ。
 それで、卒業後、当時毎年文部省の依頼を受けて中国地方では一箇所だけ近くの国立大学の教育学部で実施されていた社会教育主事講習を受けることを決めていたのだが、その先生は幼児教育学科の先生でありながら、その講習会の講師の重要メンバーのひとりだったということがただひとつ私とその先生との接点であった。

 私たちは、二人のときはときどきそのことについて話し合った。
 後期、幼児教育学科の学生達に平行して社会教育的な概念を持たせることへの実験を始められた。学生達の学習課題を幼児教育を中心に枠を広げていくなかで、お互いが学びあうという講座をひとつ設けられた。
 それは、学生達をいくつかのグループに分けて、自分たちの学習課題をどのように学習していくかのプロセスを話し合い、それに必要な講師を自分たちで交渉して学外からでも招いて他の学生達にもお誘いの広報活動から会場作り、接待、謝礼(もちろん学科持ちだが)の授受、お見送りお礼の手紙、そして学んだことの総括をするといったような形だった。
 講師は、覚えているものでは、社会福祉委員会の市会議員であったり、社会福祉施設の経営者であったりだった。とにかくグループの数だけ講師が招かれたようだ。

 そして、私にも卒業の時期が近づいたそのころ、先生から一冊の真っ赤な冊子を頂いた。それは、この講座についてそれぞれの学生達が綴った感想文集のようなものだった。
 そのタイトルが『1980』で、(いちきゅうぱーぜろ)とルビが打たれてあった。
 先生が「あなたがよく、いちきゅうぱーぜろといっていたから」といって笑われた。私も笑った。
 わたしは学生でもあったが、貧しい二人の子持ちの主婦で、学費と生活費が混ぜこじゃの生活をしていた。一日、大体2000円の食費から1000円の本を買えばその日は1000円の食事代といった感じだった。
 お互い生活が厳しいという話になると私は「勿論洋服は、いちきゅうぱーぜろの物しか買いませんよ」といっていた。そのことだった。しかし、あとで気づいたことだがその年の西暦が1980年だった。
 でもそのおかげで、まったく日記をつけていない私にもそんなこんなのあった年が1980年だったとおもいだせる。

 そのほかのはなしもとても面白いのだが、長くなったのでこのあたりで。

 
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