『聖徳太子はだれに殺されたのか』
2010/01/29(Fri)
関裕二 著 『聖徳太子はだれに殺されたのか』 を読む。

 これは私にとって大変ショッキングな内容の書である。
 散々、『日本書紀』の今までとは違った解釈について頭の中をこんがらかせながら読まされた挙句、最後の最後こともあろうに、聖徳太子を殺したのは秦河勝だというのである。
 しかも、妙に納得させられるのである。

 関裕二という人の作品は初めて読んだ。

 これまでの、
 【聖徳太子は29代欽明天皇の子の31代用明天皇と、おなじく欽明天皇の子の穴穂部間人皇女の間に生まれた。
 叔母に当たる33代推古天皇の摂政として行った政治的そして仏教的活動による偉業は、その後彼が聖者として尊ばれるものであった。
 その間仏教に反旗を翻す物部守屋を倒す。
 晩年を都である飛鳥から遠く離れた斑鳩宮で送り、太子が亡くなってその子山背大兄王をはじめとする太子一族が蘇我入鹿によって法隆寺において滅亡に追い込まれる。】
という、聖徳太子にまつわる事柄を次々と変更してゆく。

 聖徳太子はじつは蘇我入鹿と同一人物である。
 聖徳太子は摂政ではなく天皇だった。
 聖徳太子(入鹿)は物部守屋とは敵対していなかった。
 聖徳太子が死んだのは大化の改新(乙巳の変)で入鹿が殺されたときだった。
 入鹿を殺したのは中臣鎌足ではなくて、秦河勝であった。

 ということである。

 最初は、今となっては誰もわからない昔のこと。色々想像をめぐらして楽しむほうがロマンがあって・・・・などと考えていたけれどこの結末には・・・・・。

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コメント
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た!太子が入鹿で、大化の改新で入鹿を殺したのが、秦河勝で、河勝が入鹿?!?!あかねさん、何をご乱心あそばしていますか?これでは漁師見習の私は、イルカに襲われ、船から落っこちてしまいそうです?!?!梅原大先生の哲学的解釈の?太子に憧れ、早朝の法隆寺まで出かけた私は、いったいどうなるのでしょうか?私の家の近くに「神」さんという名字の方がいます。図書館で調べたところ、中臣鎌足=藤原鎌足の末裔だということは判明したのですが・・・。こうだから歴史はおもしろいのですね。秦河勝が太子を殺したということ、もっと教えてください。私は今は勝海舟でいっぱいですから。
2010/01/29 14:29  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
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この書では中臣鎌足は、百済王子の豊璋であるとしています。

≪豊璋は舒明3年(631年)に人質として来日していたが、660年百済滅亡後、百済の残党が王朝復興のために挙兵し、百済軍はヤマト朝廷に救援を申し入れこれを受け豊璋は百済に戻り、また中大兄皇子は軍団を百済に差し向けた。663年、唐・新羅連合軍と戦った(白村江の戦い)が、結局大敗北を喫し、百済は消滅した。≫
 以後、豊璋の名前は姿を消し中臣鎌足の名前が登場するというのである。
 遣隋使・遣唐使と行き来していたのに百済に応援することは唐と断絶することになる。唐と行き来していた現政権をも倒す必要があった。
 天皇である蘇我入鹿を殺すしかない。三輪山に刺客を送るが成功しない。そこで中大兄皇子を味方にするそれでも周りがしっかり固められていて成功しない。それで、内部の秦河勝に寝返らせてその意を遂げる。というのが彼の主張です。時代の流れに矛盾があるようにも思うのですが・・・。

2010/01/31 08:11  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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