『日露戦争勝利のあとの誤算』 4 
2010/02/19(Fri)
 黒岩比佐子 著 『日露戦争勝利のあとの誤算』 
  4章・5章(終章)・あとがき を読む。

 ページの残りが少なくなって本が見当たらなくなった。
 お借りしたものなので家と車と職場に捜索願を出してイライラしていたが、やっと見つかり今日歯医者での待ち時間に読み終えた。
 やはり、思ったとおり4章、5章の半ばまでは何が書いてあったかすでに忘れてしまっている。打っちゃっておいて続きを読む。

 実は今日読んだところに、私としてはなんともいえない読書の至福を感じる記述があった。
 旧友に出会ったような気持ちすらする。
 1章で、漱石の三山に出会ったときの感想の記述を思い出したがそのような文章の引用がある。

 ≪池辺君の名は其前から承知して知っていたが、顔を見るのは其の時が初めてなので、どんな風采のどんな格好の人か丸で心得なかったが、出て面接して見ると大変に偉大な男であった。顔も大きい、手も大きい、肩も大きい。凡て大きいづくめであった。余は彼の体格と、彼の座っている客間のきやしや(何のことかわからない)一方の骨組みとを比較して、少し誇張の嫌いはあるが、大仏を待合に招じたと同様に不釣合いな感を起こした。先ず是からしてが少し意表であった。其れから話をした。話をしているうちに、如何いう訳だか、余は自分の前にいる彼と西郷隆盛とを連想し始めた。・・・・≫

 池辺三山著『明治維新三大政治家』の漱石の序文中の引用だそうだが私はこの書を読んでいないので漱石が他のものにも書いていたのだろう。

 また、『三山居士』では、

≪余が修善寺で生死の間に迷う程の心細い病み方をしていた時、池辺君は例の通りの長大なからだを東京から運んできて、余の枕辺に座った。そうして苦い顔をしながら、医者に騙されて来て見たと言った。医者に騙されたと言う彼は、固より余を騙すつもりでこういう言葉を発したのである。≫とあり、著者が
≪そのとき、漱石は自分が三山を見送ることになろうとは、思っても見なかった≫
と書き添えている。

そして、この書のまとめともなるような用い方で司馬遼太郎の『この国のかたち 一』の引用がある。

≪要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。・・・・ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本市場最初の現象ではなかったであろうか。調子狂いは、ここから始まった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万と言われた。・・・・私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に     たとえば参謀本部に
    蓄電されて、以後の国家的盲動のエネルギィーになったように思えてならない。
 むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪であったと言って良い。≫

私も、『この国のかたち 一』は愛読した。しかしその時は、この一文の内容をここまで充分には理解しなかった。

いま、私たちにとっては、マスコミによってでしか政治・経済の様子はわからないと思っているがじつは肌で政治経済について感じ取る感性を持たなければと感じさせる書であった。

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