『聖徳太子』上 2
2010/03/04(Thu)
 梅原猛 著 『聖徳太子』上のⅠ章 を読む

 この 、Ⅰ章 仏教伝来の意味するもの は、序章の東南アジアの中での日本への仏教伝来の意味を探るという期待にすぐさまこたえてくれる。
 最初の小題 「仏教伝来は552年」、
  「政治的事件としての仏教伝来」以外の
  「仏教の誕生と展開」、
  「梁の武帝  仏教国の誕生と崩壊」、
  「朝鮮半島の政治的状況と日本」、
  「任那を譲って文明移入」、
  「新羅の脅威と聖明王の一計」、
  「百済の思惑と日本の無関心」、
  「百済の使者が見た梁の廃墟」、
  「百済の賭  一体の釈迦仏にこめられた悲願」
はすべて仏教伝来以前のインドでの仏教の誕生とその興亡であり、中国・朝鮮半島の国々の誕生とその興亡である。その資料は同じ時代を記録した「日本書紀」などに比べたら、正確でまことに詳細を極めている。
たとえば、

 ≪この欽明九年(548年)、三国間に若干のトラブルがあった。

(聖明王) 26年春正月、高句麗王・平成(陽原王)濊とともに謀りて、漢北の独山城を攻む。王、使いを遣わして新羅に救いを請う。羅王、将軍・朱珍に命じて、甲卒三千を率いて、之を発す。朱珍、日夜兼程して独山城の下に至り、麗兵と一度戦い、大いに之を破る。(百済本紀)

(陽原王) 四年春正月、濊の兵、六千を以って百済の独山城を攻む。新羅の将軍・朱珍、来たりて援く。故に克たずして退く。(高句麗本紀)

(真興王) 九年春二月、高句麗、濊人とともに百済の独山城を攻む。百済、救いを請う。王、将軍・朱玲を遣わし、勁卒三千を率いて之を撃つ。殺し、獲うこと甚だ多し。(新羅本紀)≫

と、このように一つの出来事が、関係国で同時に記録されているのである。
そんな資料により、百済が取引材料として仏教と文化をもって、以前野蛮で強かった日本の武力に頼ることで国を守ろうとした事情を解き明かす。
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コメント
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百済から仏像を贈られて、見た時の用明天皇の驚きぶりは、なんとなく理解できるような気がします。梅原さんは私は理解できませんがカント的発想で古代学を究明するといっていますが、函館で縄文についての講演をしたとき、北海道発の国宝に指定された「中空土偶」の足の間にある穴のことを、女性自身ではないかと決め付けていましたが、土偶を管理している学芸員人に尋ねたら、土偶に中が空っぽなので、焼くときに中に火を入れるための穴だといってました。梅原先生も岡本太郎先生「芸術は爆発だ!」と似たところがあると思います。でも、聖徳太子に興味を持たせてくれたのは梅原先生です。
2010/03/05 16:56  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
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 中に火を入れたのでしょうか?暖まって膨張した空気が出る穴が必要だったのではないでしょうか?
 私もカントは好きですが、「カント的発想での古代学研究」と言うのはよくわかりませんね。ただ、文字を物としてではなく感情で読み取っている確立は他の書物より多いい様な気がします。たとえば、百済からの要求や新羅への対応が日本としては恥ずかしいなどと1ページの中で2度くらい述べていたりするところです。
2010/03/05 23:13  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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