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『天皇の戦争責任・再考』
2010/09/05(Sun)
『天皇の戦争責任・再考』を読んだ。

池田清彦・井崎正敏・小浜逸郎・小谷野敦・橋爪大三郎・八木秀次・吉田司、7名の寄稿による。

「はじめに」の説明によると、この新書の目的は色々な解釈がある中にも、たとえば百歩譲って、戦争時には、形式的地位にあったにすぎないにしても、開戦の詔勅の署名者であり、元首だった人間の戦争責任があいまいにされながら、戦争を経験しなかった人間の戦争責任が問われるのは、甚だ気持ちの良いものではない。
卑屈な謝罪や、そのば凌ぎの言い逃れや、感情的な居直りを解消していくためにも、日本人として避けてとおれない問題であるが故に真摯に取り組みたいと単純に事前になんのすり合わせもなく聴いてみたいと思った人の意見を並列したという。
七名の著者には何の関係性もない。

 そんななか、最後の著者吉田司という人の記事だけを取り上げる。

 「天皇論の現在はどのレベルにあるのか」吉田司
 この著者は異色である。
 
 この問題にまともに取り合うほど自分は天皇の置かれている立場などわかるものでもないので考えるにはおこがましいなどと知らんふりをしていたいと思うほどの国民の1人でもある私にはちょうどいい感覚で読めそうな著者だ。
 確かにこの著者が指摘しているように私にも天皇といえばヒロヒトであり、ヒロヒトといえば戦争責任について問うてみたい相手でもある。
 しかし、著者の関心は、今私たちがいただいているアキヒトについてはどうなのかというところ。
 彼の方こそが長い部屋住み生活の中でまた在位中の中でこの問題に苦しんでいるのではないか。とその問題を今現在の天皇の問題として考える。
 わたくしも実はつい最近ぐぐっとそんなことを考えるきっかけになった一文に出会った。
 愛子様が学習院初等科でイジメにあっていることに関しての美容院で読んだ週刊誌の記事だ。同じクラスの保護者が特別扱いしすぎるのではないかというようなことを言ったという記事。
 これは考えさせられた。私も子どもを預かる仕事をしているから保護者の意見は聞き捨てにならない。今、主権在民の法の中にあって、他の生徒には主権者としての権利が認められている。ところで愛子様は???。彼女は意見もいえない立場にある中で開戦の詔勅の署名をしなければいけない立場になるかもしれない人なのだ。
 負ければ、うちに敗戦責任と外に開戦責任を負わされる立場になるかもしれないひとなのだ。
 今、皇太子殿下がこんな責任を雅子様との間に生まれた娘に負わせる。そんなにありえないかもしれないことを考えないにしても国民の象徴といわれる人を育てるということをどのように考えられているだろうか。
 天皇の戦争責任を考えるとき、戦争の放棄を謳った憲法の遵守を平行してして考えなければいけない。
 天皇制についてもその意味を考えなければいけない。と思う。

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