『こころの回廊』Ⅱ
2010/10/12(Tue)
 渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅱ
 
 この書は中国新聞に掲載された著者の記事をまとめたもの。

 第1章 おかるとみすゞ
 は、「関門海峡」・「おかると辛酉(シンユウ)」・「六連島(ムツレジマ)」・「おかるとみすゞ」・「みすゞ夢の城」・「西長門の海」・「土井ケ浜」・「壇ノ浦」 と題して、2005年11月7日から2006年1月7日までの1週間に一度の八つの記事がまとめてある。

 「関門海峡」は、いわばこの作品全体の指し示す方向について述べられている。

 ≪宗教的思想は禅や念仏といった瞑想から生まれる。一方、元来仏教では修行者は「一所不在」であり、遊行の旅に一生を過ごした。定住による執着を避け、無常の風に身をまかせた。「一所懸命」とは逆の発想である。そこから生まれる「旅想」とでも言うべきものが思想に融合する。西行、一遍、芭蕉の旅がそうである。
浄土教では人生は浄土への旅である。「西方十万億土」と言われる遥かなる仏土にはたしてたどりつくことができるのか≫

 読者としての私は、このではじめの「一所懸命」ということばに衝撃を受けた。
 偶然というか必然というかわたしはこの書を読みはじめる直前に司馬遼太郎の『街道をゆく』一を読んでいた。この書にも「一所懸命」ということばがでてくる。彼が「一所懸命」ということばを使ったのは、信長や秀吉に代表されるように大方の戦国武将が交易によって利潤をあげ権力を維持しようとしたことに対して、家康が「一所懸命」の農業を基盤として権力を維持しようとした変わり者のおじさんとしての指摘をしていたところ。なぜか、司馬遼太郎もまったく違った視点からなのに、そのことを長州路において述懐している。
変わり者のおじさんだといっても彼が政権をとってからのその後の300年は長い。私たち百姓の子孫にあっては「一所懸命」の思想でもって300年を生きながらえてきたのだ。

 その「一所懸命」を捨てることによって浄土への回廊を歩むところから始めなければならない。


スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
<<『こころの回廊』Ⅲ | メイン | 『こころの回廊』Ⅰ>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/370-3e5283ae

| メイン |