『司馬遼太郎全講演』第二巻 そのⅡ
2011/02/16(Wed)
 やっと読み終えた。

 北海道で、「ロシアについて」と題しての1984年の講演では、昨今のロシヤの北方領土に関するニュースを念頭に置きながら読んで、充分にその関心に応えてくれる。
 彼は国のできあがっている元のところ、つまりお里からは逃れられない、として常にそこのところに立ち返っている。
 ロシアがシベリアを国土としたいきさつをのべ、それまで日本など遠い国であったのに、常に食糧補給を必要とする、シベリア維持という不変のテーマがあり、そのなかで日本は存在しているというのがロシアにとっての以後の日本であることを知らしてくれる。

 彼には、『花神』と『胡蝶の夢』という江戸時代の医者をテーマにした小説がありいろいろなところでそのテーマに触れている。どちらも私は読んでいないが、それを通して小説に触れたような気がしてくる。『花神』の緒方洪庵とその塾生、『胡蝶の夢』の佐藤泰然とその塾生。以後の日本史の医学にそしてリアリズム・合理主義に多大な影響をあたえたことの重要性をかたる。

 そして、「日本の文章を作った人々」・「『菜の花の沖』について」・「近松門左衛門の世界」・「「見る」という話」・「文学から見た日本歴史」・「言葉の文明」・「日本人のスピーチ」・「日本の言語教育」らのテーマでの講演では重複しながらも日本の書き言葉・読み言葉について各時代においての状況に触れていることが多いい。
 私が、言語を読んだり書いたり、聞いたり話したりするようになって50年近くになるが、私は20年後に生きていたとしてテレビニュースなどを聞いてどれくらい自分が理解できるだろうと心配になるくらい、言葉の変化は激しい。
 これらの講演記録を読んでいて、今のように誰が読んでも理解できるような文章が横行するようになったのは昭和30年前半の週刊誌が出回るようになってからだというくだりを読んでびっくりする。と同時に、紙の質の悪い昭和25年出版の日本文学全集を昭和46年生まれの大学生だった娘が読めない(実は全部かなが振ってあって読もうとすれば読めるかもしれない)ので、尾崎和男の『のんき眼鏡』という作品を読み聞かせたことがあったのを思い出しさもありなんとも思う。

 有島武夫についての記述を追記する。
 数ある作家の中で私と誕生日が3月4日で同じ作家を見出したことがあった。
 それが、有島武夫。
 それで、高校生のとき、彼の『或る女』をはじめ『惜しみなく愛は奪う』などほとんど購入して読み漁ったはずなのに、内容についてはもちろんまったく覚えていないし以後読んだこともなかった。
 司馬遼太郎は、神奈川県立青少年センターでの「横浜のダンディズム」と題しての講演で、

 ≪私は明治の横浜を考えるとき、有島武夫が一典型に思えることがあります。≫と述べている。その理由として
 ≪彼の父親は薩摩藩士でしたが、明治になって横浜の運上所の所長になりました。そしてあり島は、小学一年生のころから近所のアメリカ人の家に毎日、英語を教わりにいっています。彼の中で日本語が形成されていくのと同時に、あるいはそれよりも早くに英語を覚えたということになります。言葉は思想を伴います。
 ところが家に帰ると、父親が薩摩藩士としての躾をするのです。さらに有島家には母方の祖父が同居していまして、この人が大変熱心な浄土真宗の信者でした。浄土真宗は、日本の仏教の中では珍しく、教義といえる宗旨を持っている宗教です。その思想を有島につぎ込みました。思想的にいえば三重の体験ということになります。これが小学校四年のときに東京に転居するまで続き、彼の生涯の特異さを決定しました。≫
 その後学習院を出て、当時文明開化のシンボルとして輝ける存在の札幌農大に進みプロテスタンティズムの影響を受け、ハーバード大学に留学、当時アメリカで流行していた初期の社会主義の影響を受ける。
 ≪ひとつの固体のなかで諸思想が互いに矛盾しつつ同居すると、ろくなことはありません。それらを統一すべく、有島の精神は発熱し、苦しむ。有島は小説を書くことによって出口を見出そうとするのですが、しばしば自己破産に近い状態に陥り、ついには悲劇的な死を迎えます。私は明治の横浜を考えるとき、有島武夫が一典型に思えることがあります。≫と述べている。

 彼の本は文庫本で買ったのでこれらのことは解説にかかれてあったと思えるので読んでいるはずだけどまったく覚えてはいなくてあらためて知った。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
<<『愛の渇き』 | メイン | 日曜日の講演会>>
コメント
-  -
有島記念館は田園風景の中にひっそりあります。有島と縁の深い、画家の木田金次郎記念館も少し離れたところにあります。何度か訪れ、その交友関係に触れています。有島が、多くの思想が混ざった人物だというのは、興味の引かれるところです。木田は洞爺丸が沈没したときの台風のとき、故郷の岩内町が大火にあいます。その時に描き溜めた全作品が焼失します。確か60歳代だと思いますが、それから多くの絵に挑みます。有島と木田の関係は以前ブログし書きましたが、いつだったか忘れてしまいました。
2011/02/17 10:34  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
-  -
「有島記念館」を教えていただき、いろいろ検索してみました。高校生のころは、それなりに理解していたのだと思いますが、いま司馬遼太郎の視点での見方からズームインでみると彼の時代的なそして文学的なポジションの理解のうえで読み取れます。
 そして、記念館からは、思ってもみなかった農場開放の先駆者としての存在がクローズアップされるのですね。それがあの場所に記念館があるということの意味なのですね。それにしても羊蹄山の美しい姿。すごい借景ですね。
2011/02/17 16:00  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/392-64205142

| メイン |