「義務について」
2011/03/06(Sun)
 1990年 イギリス・ロンドン大学ローガンホール においての、司馬遼太郎の講演記録。
 
 「義務」という言葉は明治の西洋化に伴って訳語として即席に作られた。
 「義務」の義は ”正しいことを、打算や本音を超えてやること”という意味が入っていて、司馬遼太郎はうまい訳だと評価する。

 西洋においてこの義務という概念が最初に見受けられるのがオランダとならんでイギリスだといっている。
 英国人の国民的性格は、ざっといえばプロテスタントが作ったものであり、そしてもうひとつ毛織物工業がさかんで、それを売るための貿易という大商業、ビッグ・ビジネスがさきがけて起こっていたことをあげている。
 ビッグ・ビジネスは組織がやることなので、それに参加している個々のひとびとは給料制で、ビジネスの部分的機能を果たさねば、ビジネス全体が、故障した機械のように動かなくなるということを最初に知った国民の中に入る。
 当時、カトリックは『聖書』は教会が持つもので平信徒に読ませたりするようなことはせず、教会という問屋をとうしていたが、プロテスタントはたれもが『聖書』をもち、たれもがそれを読み信徒がじかに神と結びつこうとし、厳格に自分を律していた。
 
 世界は、15世紀末から詳しくは1493年5月4日、ローマ教皇の勅書によって、地球があたかもりんごを二つに割るように西経46度37分で領有権を分けてしまいます。日本人がまったく知らぬ間に、日本はポルトガルの領有に入ることになり、ヨーロッパ人としてはじめて日本に上陸したスペイン人のザビエルは同時に日本を大天使ミカエルにささげたのです。

 しかし、1588年ドーバー海戦において、「いま自分はなにをすべきか」と考えることのできる英国人の国民性は貧弱な商船で、分け前主義で、カトリック教国の「太陽の沈まぬ国」としてヨーロッパ世界をおおう大帝国であったスペインの無敵艦隊を打ち破ります。

 この海戦での商船の艦長の一人がのち、オランダの貿易会社に雇われ、関が原の戦いの年に、初のプロテスタントとしてオランダ船デ・リーフデ号で、惨憺たる航海の末豊後の湾に入り込み、のち徳川家康に気に入られ旗本になる三浦按針ことウイリアム・アダムズなのです。

 日本は、武士道を土台にして「義務」を育てたつもりでした。
 しかしいまどうでしょうかと結んでいる。
 義務を「納税の義務、兵役の義務、教育の義務」といった国家から拘束性の強い言葉としてではなく、ナポレオン治下のフランスとスペインの連合艦隊と戦って戦死した、ネルソン艦長の最後の言葉「私は、私の義務を果たした」のように、「そうすることが、私の義務ですから」と、ゆたかに、他者のための、あるいは公の利益のための自己犠牲の量を湛えて存在している精神像以外に、資本主義を維持する倫理像はないようにおもう。と述べている。

 こういった著書に触れることができたこと。私の人生を芳醇にしてくれる読書だった。

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コメント
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1493年5月4日からの文章はとても参考になります。花てぼさんは私の書道の先生です。門下生ではなく、門外生ですが。あかねさんも歴史学教授として、私を門外生にしてください。これからも楽しみにしていますよ。どんどん書いてください。
2011/03/10 15:37  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
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 1493年のことは私もびっくりです。
 なので、おこがましいとは思いますが、2011年3月11日、私、深山あかねの勅書によって、日の出を待ってやまない エイコウさんには太陽を、花てぼさんには毎夜その満ち欠けによって情感を誘うお月様をさしあげます。
 「門外生」?いや、私が司馬史観の門外生 なのです。此度の講演全集は始めて読むものですが、またまた感動ものなのです。ちょうど、夏目漱石の作品をさんざん読み返して、のちに彼の世界的名著といわれる『文学論』や、『講演集』を読んだときの感動を思い起こします。漱石は司馬遼太郎ほど資料の掘り起こしをしていませんからその『文学論』は多分に数学的で、司馬遼太郎のそれは、恣意的であり、ゆえに教化的だとおもうのです。
 
2011/03/11 10:08  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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