97「人間の復興と魂の再生」
2011/04/15(Fri)
五木寛之著 『他力』 を読む

≪97「人間の復興と魂の再生」

戯曲『蓮如』を連載している最中に、読者のかたがたからたくさんの葉書や手紙をいただきました。そうした中では、「死体の転がっている鴨川で死者を埋葬・供養する人々の前で『御文章』を朗読する蓮如の姿に、神戸の焼け跡を重ね合わせて読みました」という内容が、圧倒的に多かったのが印象的でした。そこまでの読みこみを期待して書いたつもりではなかったのに、読者がそんなふうに読んでいただいたことに私は驚いたものです。そして私は完成に向けて自分が描いていた構想が、大きく変わってしまったのです。
 「これは十五世紀の中世の話を書いているのではなく、いま、まさに阪神・淡路大震災以後の焦土に立っている、現代の蓮如を書いているのだ。それなら、こういうふうにならなければおかしい」と感じて、後は、ものに憑かれたように一気に書き上げてしまいました。もっと暗く、もっと絶望的な終わり方をしようと思っていたのですが、そうならなかったのです。
 いま大事なのは、人間の復興だ、魂の再生だ、そのための希望だ、とはよく言われることです。
 しかし、それは言葉だけでは難しい。それを語りかける人の熱意と感情が必要なのだという切迫感が、書いている間に、心の中に湧き上がってきて、二十何年ぶりに、書きながら読者と媒体と自分との一体感をびしびし感じたのです。
 蓮如が生きていた時代、十五世紀の日本社会は荘園制度が大きく揺らいで、下克上という下層民の反乱があり、全国津々浦々で、それまで賤民として蔑視されていた商人や職人、馬借・車借などの交易に従事する者、つまり農民でない非定住民たちが大きな経済力と武力と実力とを具え、守護大名に仕えている武士ではない、地侍というゲリラ的な武力と結びついて、新しいエネルギーで時代をひっくり返していこうとした時代なのです。
 その当時の京都は犯罪都市で、テロが横行する都で、魂の荒廃が一般に広がり、人々は絶望の中で何かを求めて迷信的な方向へ雪崩をうって進みつつあった。 
 当時の本願寺は、困窮のどん底にありました。それに反して、ありとあらゆるカルト的宗教が澎湃(ほうはい)として起き、そこに人々が吸い寄せられていた時期だったのです。
 いまの状況と中世とが、奇妙なくらいにぴったり重なり合う。こういうときにこそ、人間の復興、魂の再生、そのための希望が必要なのだと、もし蓮如が生きていたら叫んだにちがいありません。≫

 この文章は五木寛之の『他力 100のヒント』の97番目の文章の書き写しです。
 
 阪神・淡路大震災をさらにさらに上回る東日本大震災と福島の原発事故をうけ、毎日の報道に涙しているいま、この一文が身にしみる。

 この『他力』には、法然、親鸞・蓮如、なかでも蓮如について多く言葉を割いています。
 蓮如については私も若いころからあまりいい評判は読んでいません。しかし、五木寛之はほんとうにそうだろうかと問いかけています。
 
 ≪親鸞は真剣に念仏とは何か、信心とは何かということに取り組み、それを獲得した。しかし、蓮如にはそのような内面の求道性がないと言う人もいます。それでもわたしはそうは思わないのです。伝道家に
信仰が必要ないとは考えられません。そうではなくて、ふたつの谷間、深い信仰と伝道という活動の間の大きな亀裂を越えていかなければならないのです。
 そういう難しさは、書斎の思想家より現場の活動家の肩に重くのしかかってくるものなのです。親鸞と蓮如の間には二百数十年という時間があり、その時間を越えて、どのように親鸞の思想を手渡すかという苦渋は、並々ならぬものがあったと思います。≫

 この人間の復興と魂の再生とは何からの復興であり再生であるかといえば経済の高度成長という価値観からの復興であり再生であるということは言うまでもない。
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コメント
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この度の大震災は、多くの教訓を与えてくれます。私たちはそこから学びとらなければ、多くの犠牲者たちに報いることはできません。戦後の日本は、魂をどこかへ置き忘れたのかもしれません。魂の再生、人間の復興が、これからの日本だというのは、同感です。
2011/04/19 14:07  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
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昨夜いつものように司馬遼太郎を読んでいました。鉄についてです。「日本での鉄器時代の到来は弥生式農耕がはいってからのことで、普及し始めるのは古墳時代になってから」のくだりについて夫に話すと、その情報は古く「縄文時代にはもう鉄を使っていたというのが定説になりつつある。」といいます。
 書では、砂鉄から千二百貫の鉄を得るのに四千貫の木炭を使うといいます。日本ほど森林の復元力のある国はなく、朝鮮半島などの禿山がそれを物語っているといいます。鉄は農耕生産や土木事業に貢献しましたが、武器にもなりました。
 人間は発達をしては、その弊害で悩み、あるいはその文明を捨て、ほかのものの発達を待ってはまた再度利用するといったようなことを繰り返してきたのかななどと思いました。
 調和のとれた発達ということを静かに考えるとき、「人間の復興と魂の再生」ということなしには前に進めないとの思いです。
 
2011/04/20 11:48  | URL | #-[ 編集]
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 変な広告でびっくりしました。
お元気でご活躍と思っていたのですが、是非ブログで知らせて下さい。
震災後、なにかと疲労が積み重なっておられるのではないかと気がかりです。
蓮如での五木寛之氏の発言、全部を読みたくなりました。
それと深山あかね様の考察でもある、現代の復興と再生の課題については、私にも色々考えるべきテーマとなっています。
一番は原発を廃止するのか、続けるのか、ふるさとを追われる人々の生きる術、ふるさとの再生はあり得るのか、そうして日本は何処へ?という疑問や問いが、矢継ぎ早に心を騒がせています。
何かと虚しさの積もる中ですが、一方では今日一日を楽しく豊かに生きてゆきたいと単純に思うのです。

 被災地での様々な出来事が、日本中の人々の心身を不安定に陥れてしまった気がしてなりません。
お元気でお過ごし下さいね。
2011/05/16 12:07  | URL | みどり #-[ 編集]
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 みどりさんへ
 一ヶ月以上ブログを更新しないとこういうことになり、更新するとご覧のとおりもとどおりになります。
 じつは4月1日付けで転勤いたしました。
 新しい職場にも少しずつ慣れてきました。
 前いたところは4年間でしたが、その間にブログをはじめました。忙しすぎてほとんどのことを止めてしまい仕事とブログだけの生活でした。
 こんどのところは、見通しを立てて仕事が出来るので心にゆとりがありますし超過勤務なしでやってゆけるので、いろんな事を始めました。
 まずは家の片付けと掃除、みどりさんのようにお花を必ず何箇所かに生ける。近所に病気の人がいれば病気見舞いに行く。庭の手入れをする。庭の食材(三つ葉・芹・つわぶき・ねぎ・ちしゃ)は必ず採取して調理する。といった具合です。
 今日はテレビを2台買い換えて3ヶ月くらいになるのですが、古いテレビを2台引き取っていただくのにお金がかかるのを、古いパソコンや印刷機を一緒に引き取ってもらうとただになるというので家中のパソコンの不要なものを選び出していっしょに持って帰っていただきました。それから娘の家の掃除に出かけ3時間(時給700円)掃除をし、仕事に行き、帰って今骨董に凝っている夫が(じつはなんでも鑑定団に出演しました。掛け軸が120万円だったのに気をよくしています)久坂玄瑞の書(?)を箪笥から見つけたというので二人で解読してといった具合です。
 本など読んでいられない忙しさです。
 でも今日はといっても朝になりましたが何とかブログを更新しました。
 震災のことでは、テレビを見ては毎日涙を流してみんなして体調がおかしくなっているのに、いまのところ私の生活は変わりません。でも、内心、国が持つのか心配です。たとえば貯金を封鎖するとか、箪笥預金を使えなくするために新札にやりかえるとか。いきなりそんなことが起こっても不思議ではありませんよね。
 しかし庭の草花を見ていると今年は変です。まだ災害が起こりそうな気もします。こんなときに『方丈記』が書かれたのでしょうね。
 みどりさんのつむぎだされる詩にも感動します。震災などあると、なかったときの心持ちにはどうしても帰れないということもよくわかりますしその気持ちがみどりさんの詩にあることが私の歴史観に刻み込まれてゆきます。
 
2011/05/17 02:12  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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