『新聞記者で死にたい』-障害は個性だー
2007/10/24(Wed)
  牧太郎著『新聞記者で死にたい』-障害は個性だーを読む

 最後の一行にいたるまで読み応えのある内容だった。

 これだけの書でありながら、著者は最後に、≪僕と同じように大病に苦しんでいる方、ご家族にぜひ読んでいただきたい。複雑ながら率直な僕のお願いである。≫ と述べている。

 今のところ五体満足だが、「読ませていただきありがとうございました。」と深く御礼を言いたい。

 著者は、週刊誌の編集長をしていた人だということだが、私は週刊誌をほとんど読まない。
 読むといえば『文芸春秋』がまず先で後は何でもいい。
 『文芸春秋』もまずは「土屋賢二」のものを読む。ひと笑いして他のエッセイを読むくらいだ。
 しかし「土屋賢二」のものも、一度まとめてハード本になっているのを読んでがっかりした。まとめてあると、ばかばかしかった。
 でもこれは、私に哲学に対する薀蓄がないせいで、著者の責任ではない。

 ところが、この『新聞記者で死にたい』は、1980年代から90年代の『サンデー毎日』をまとめて読んでいるような内容の濃さだ。

 著者は、47歳で『サンデー毎日』の編集局長のとき、あるパーティー会場で挨拶をして演台を降りたとたん、脳卒中で倒れ、右半身の麻痺と失語症になってしまう。

 ≪僕の「自由」は音を立てて崩れ去った。それから6年間、僕は絶望し、鬱病にかかり、ベッドの中でのたうちまわった。≫と述べられている。

 本人の闘病生活については、その苦しみは涙ながらに読むところも度々あったが、ほんと経験していないので、想像の域を出ない。

 しかし、脳卒中で倒れる前と退院後の彼の仕事については行間にくぎ付けになる。

 全てのマスコミに先駆け、1989年の秋オウム真理教の記事を取り上げたのが、サンデー毎日であり、牧太郎氏であった事をはじめて知った。
 それからのオウム真理教との闘いについては、壮絶なものがある。
 坂本弁護士と彼がポアの対象になっていて、彼の帰宅時間にばらつきがありすぎるので彼へのポアはあきらめ、坂本弁護士だけが拉致され殺されたということだ。

 この、オウム真理教を取り扱うにあたっての彼の考え方について

 ≪「オウム真理教の狂気」と題した告発キャンペーンはこうしてスタートした。
 取材を始めて、この疑問は確信となった。オウム真理教のしていることは「宗教の自由」という仮面をかぶった「民主主義の不備を突いた犯罪的行為」である。
 漠然とした言い方になるが、欧米と違って、日本では「私は無宗教」と認識している人が多い。
 結婚式で初めて「宗教」に出会った若者が大多数である。
 僕は、公教育の場で「宗教」という概念を教えられた記憶はない。
 一方、戦後、アメリカが用意した憲法で日本は「信教の自由」が保障された。
 戦前の、天皇を現人神(あらひとがみ)とした「統治システムとしての宗教観」を払拭するのが、アメリカが作った「憲法」の主たる目的であった。
 もともと、生活の中に宗教があったはずの日本に、「信教の自由」が保障された日本に「人間が生きるために、大切な宗教とは何か?」の教育がない。
 僕たちは、法的に保障されるべき「宗教」とは何か?を議論していない。
 「宗教」の概念を理解し議論しないうちに、宗教団体に法的な「優遇措置」が保障された。
 ここに「与えられた憲法」の不備があった。その「不備」が狙われている、と僕は思った。
 オウムの被害者は「警察にいっても、ラチがあかない」と嘆息する。警察も「宗教の弾圧」と言われたくないので、手をこまねいているのだろう。≫

 牧太郎氏の言うアメリカの作為というものには多少疑問の残るものの(これについては、A級戦犯の執行前の人たちにどのような形で宗教家例えば僧侶などを係わらせようとしたのか、そのあたりもよくわからないので)彼の言っていることは大きく頷ける。

 オウムの信者に教え子がいたという大学教授の方々のオウム事件以後の著作には、必ず宗教の教えが入ってきている。
 それが、せめてもの良心というものだろうと思う。

 あるとき、大学を卒業して、社会人2年生くらいの男性が、「目からうろこでしたよ。」と小室直樹の『日本人のための宗教原論』という本の紹介をしてくれた。
 さっそく、図書館で借りて読んだが、これは買っておくべきと買い求め、時々読み返す。
 その若者は、義務教育9年、高等教育7年では出会えず、社会に出てやっと宗教に関するテキストとであったのだ。

 オウムの信者となった若者が、何を考えていたかは分からない。
しかし確かに牧太郎氏の言うように、「人間が生きるために、大切な宗教とは何か?」の教育をうけていないことは確かだ。

 家庭がやるべきだが戦後家庭は、学校での民主主義教育の進め方についていくのがやっとで、民主主義信仰はあっても宗教信仰の継承には精神的にも、時間的にもそのゆとりがなかった。
 家庭が出来ない教育は学校がしなければ、ついに教わることは出来ない。

 しかし、「動物の中でも宗教を持っているのは人間だけだ。」といった人がいるが、人間は本能としての部分で宗教または哲学を求めているとすれば、今後、「人間が生きるために、大切な宗教・哲学とは何か?」という論議が必要になってくる。

 なんだか難しい話になってきたが、それを避けてとおることは第二・第三とオウム事件が起こる可能性がある。
 
 その他の特筆された記事では、中曽根政権下でのスクープなどについての話も城山三郎の小説などより面白かった感がある。



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