『少年にわが子を殺された親たち』
2011/08/05(Fri)
黒沼克史著 『少年にわが子を殺された親たち』を読む。

このたび転勤した施設では今まで経験したことがないほど子どもの暴力が横行している。「まだ落ち着いたほうなんですよ」と以前からの職員はいう。

夏休み学校でのプールが始まって、監視員からクレームがついて、保護者に伝えられ、クレームがついた子どもの保護者がわが子にプール使用を禁じて、3人は泳ぎにいかなくなった。

プールでの出来事。こんなことを考えていて、ふと、以前川で溺れ死んだ子どものお母さんからいただいていたこの本のことを思い出して手に取った。

ずっしりと重たく、硬く閉じられ開いた感じがない。しかし、次に逢ったときのコメントのことを考えてか、私の文字で感想を書いたメモが挟まれていた。読んでいたのだ。

1985年の7月20日の出来事なのに、溺れて死んだ子どもの家族をよく知っているだけに、そして、転勤で毎日事故現場を眼下に見て通勤しているだけに、読めば読むほどつい昨日のことのように思われてくる。そして、この両親に丁寧に付き添わなかった自分は取り返しのつかないことをした深い自責の念に駆られる。

O君は4年生、夏休みになる終業式の日、少し成績が上がったので父親に買ってもらった釣竿とお母さんに作ってもらったおにぎりをもって友達3人で太田川の大岩に釣りに行った。O君はもともと泳げなかった。そして溺れて死んだ。

 いつもは家に居がちな母親は、その日、クラブ活動に参加している中1の次女に弁当を届けることと、中3の長女が希望する高校の見学に行くことになっていた。父親は羽振りのいいタイル工務店を経営していて1時間くらいのところの現場で働いていた。二人とも報を聞いてすでに亡くなっているとは知らず病院に駆けつける。

 ところが、一緒に釣りに行っていた2人の子どもの証言から、近所の中学生4人が来て中のH君が、O君に水中眼鏡をかけさせもぐることを強要し、水深4メートルの川に腰を押して入らせた、O君は立ち泳ぎをして、岩に手をかけたがH君が手を払いのけ顔に水をかけた。そして竿も流したことがわかりA君本人もそれを認めた。

ところが、事故検分をした警察は、A君のかかわりを否定した。

このことから起こる遺族の悲しみと悔しさとわが子に対する自責の念と、A君とおなじ中学に通う長女・次女への他の子どもたちの冷たい視線やいじめに苦しむことになる。

帯に
≪事件の真相さえも知らされず、加害少年たちだけが守られる。この理不尽がなぜ許されるのか?少年法の陰に置き去りにされた六つの家族の物語≫
とある。 

1991年2月26日と27日、A君に関する地裁判決と警察に関する地裁判決が下る。

1998年週刊文春に『少年にわが子を殺された親たち /怒りの実名座談会』と題して2週にわたる記事を読んで「須磨事件シンポジュウム」に参加したことをきっかけにこの本にO君の事件が掲載されるのである。

著者はO君の両親の言を忠実に書き記している。ご両親を知っているだけに「そういわれたでしょう」と思い涙ながらに読んだ。

O君の姉、中3の長女が娘の友達であったことから、事件以後長女も母親も何度か我が家を訪ねられた。私たちはその後2度引越しをしたが、遺族も引越しをされずっと後になってその新しい家には私も訪ねたことがあった。地価の高価なところに大きく立派なお家と、広い資材置き場用の倉庫がおなじ敷地にあって、うわさどおりずいぶん慰謝料が入ったのかなと一瞬思った。しかし読んでみると、お金目当てに裁判を起こしたと世間から冷たい目で見られていたので、大きな金の要ることは結審よりずっと先に買ったとあった。理に負け(特に警察の対応に理不尽さがある)、情けに負けたO夫妻の意地であったのだ。そしてそのことを書き記したこの書だけがO夫妻の真実を物語る。

昨日は、仕事からの帰り、父親が7年間くらいほとんど毎日行ってみたという大岩に目をやった。遠く対岸の工場の煙突から煙が出ている。裁判での警察から提出された写真の虚偽を暴くために工場と大岩の水位をずっと写真に撮ったという。この会と著者に出会うまでの13年間時は止まっていたという。
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