『故郷亡じがたく候』の1
2011/09/08(Thu)
司馬遼太郎著 『故郷亡じがたく候』 を読む

この書は、「故郷亡じがたく候」、「斬殺」、「胡桃に酒」の3つの話でなっているが、まずは「故郷亡じがたく候」について。

司馬遼太郎が昭和23年頃新聞社の京都支局に籍があって、寺院を受け持たされていた。西陣あたりの寺の庫裏のすみに転がっていた手のひら2枚ほどの壷の破片について住持と骨董商との会話を聞く。「これは薩摩島津家の一門の首塚がありそのつながりで薩摩の苗代川の窯のものであろう。」さらに「苗代川の尊さは、あの村には古朝鮮人が徳川期にも生きていたし、いまなお生きている」といった言葉。
20年経った。
司馬遼太郎がその古朝鮮人の村を訪ねて、古朝鮮人が日本に来た由来とそれからの歴史を今を生きる子孫までの望郷の念による祭事とともに物語る。

千利休が朝鮮の茶碗などを一国と相当の値をつけていた器まであらわれた時代、秀吉は朝鮮半島に攻め入る。参戦した島津勢は、全羅道の文化の中心である南原城攻略に陶磁の工人を捕獲するという特別な意図も持っていた。南原城は慶長3年8月15日の夜の攻防で韓軍の多くが死に翌16日に落城した。
ところが、この年の秀吉の死によって、2ヵ月後の10月25日和議が成立し日本軍は撤退することとなる。撤退の途中、韓・明水軍と遭遇して海戦となり、敗れてやっとの思いで小西行長の軍とで脱走して日本に帰ってくる。
この混乱によって捕獲した陶工たちとは離れ離れになり、のち、陶工たちは帰ることもできず東シナ海の外洋を南下しつつ直接薩摩半島の浜辺に翌年漂着し、言葉も通じない日本の海岸づたいに生活できるところを求めて、「コノアタリ、古山ニ似タリ」と南原(ナモン)の城外に似たこの苗代川にたどりつく。
のち島津藩がそのことを聞き及び、城下に家屋敷をあたえ、保護も加えると伝えたが、高恩は感じるが、と断った。すでに高麗町に住み日本姓を名乗る、日本軍に寝返り道案内までした裏切り者と「倶ニ天ヲ戴カズ」と「故郷、哀シク候」と申し述べ、そこの土地と屋敷と扶持をあたえられ漂着組み17姓の身分が決定した。
司馬遼太郎が苗代川を訪ねた前の年、苗代川で今を生きる子孫の沈寿官(シムスーガン)は、ソウル、釜山、高麗の三大学に招かれて講演をした。講演の状況を語りながら、
≪講演の末尾に、
「これは申し上げてよいかどうか」と前置きして、私には韓国の学生諸君への希望がある。韓国に来てさまざまの若い人たちに会ったが、若い人のだれもが口をそろえて36年間の日本の圧制について語った。もっともであり、そのとおりであるが、それを言い過ぎるとなると、そのときの心情はすでに後ろむきである。あたらしい国家は前へ前へとすすまなければならないというのに、この心情はどうであろう。」・・・・・「あなた方が36年を言うなら、私は370年をいわねばならない」この発言のあと、拍手はなかったが、学生たちは総立ちで、韓国全土で歌われている青年歌をうたって沈氏に友情の気持ちをあらわしたと言う。時の韓国の国状をおもうとこの部分は胸を熱くしながら読んだ。
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コメント
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 恥かしいような話ですが、司馬遼太郎が言わんとした370年とは?どのような歴史背景があるのですか。
日本側でも韓国に痛手を負っている過去もあるのだと、述べようとしたようにも思える発言ですが、私は其の時期の日本と朝鮮の関係を知りません。
簡単でいいですから、説明して下さい。
 昔ですが、日朝友好協会に入っていました。
朝鮮人に対する差別や蔑視感が厭だったのです。
近くに住んでいる人間同士が、何故仲良くできないのかしらと思う心が出発点でした。
10代から20代半ばまで、色々な催しに参加し、共にキャンプ地で語り合ったこともありました。
キム・イルソン主席の時代で、日本にある朝鮮大学なども訪問しました。
個人崇拝は受け入れられませんでしたが、現在よりは、ずっと、よい国に見えました。
北朝鮮が自国の内包する力で、民主化して、日本と対等平等な国交が出来たらと願います。
お互いの傷を暴き合うのではなく、歴史を正確に受け止めながら、真の友好関係が築けたらと思っています。
 いつもながら、心に響く読書に感銘を受けています。
2011/09/09 10:59  | URL | みどり #-[ 編集]
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言葉足らずな文章ですみません。
36年というのは、昭和20年までの日本の朝鮮統治の年数で固定されている数字です。
しかし、ここでいう370年と言うのは、固定されておりません。
豊臣秀吉が朝鮮出兵によって慶長3年(1597年)、全羅道の南原城を攻略したときから、そのとき日本に拉致されてきた子孫がそのまま日本の苗代川(ナシロコという地名)で韓国姓を名乗って今なお生きているのです。その中の沈寿官(シムスーガン)という人がその陶芸の技がすぐれていてそのことが本国の韓国にまで知られ、韓国に招聘されて美術関係の学生のまえで講演をしたのがそれから370年目と言っているのです。
みどりさんに言われて計算しました。司馬遼太郎が昭和23年(1948年)に京都で薩摩焼の会話を聞きます。20年(1968年)後薩摩を訪ねます。その前年(1967年)沈寿官(シムスーガン)が韓国に招かれていったと書かれているので、1967年-1597年でちょうど370年でした。
2011/09/09 20:33  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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