『水主町官有103番地が消えた日』
2011/11/04(Fri)
河合藤子編著 『水主町官有103番地が消えた日』広島県病院看護婦たちの8月6日 を読む。

この本は、広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日に、広島県病院で看護婦をしておられた、河合藤子さんが、作られた本である。

 広島の原爆に関する本で、これほど8月6日とそれに続く日々を生々しく描いた本にいままで出会ったことがなかったような気がする。

 今年3月11日以来、地震と津波で、この世に本当にあったとは思えないような災害の様子をテレビ映像で見て毎日涙を流さない日はなかったが、この書は、まるで3月11日の大惨事の様子を目の当たりに見るように、昭和20年の8月6日を生々しく想像することができる。

 もと広島藩主浅野家の屋敷跡が、明治の廃藩置県で県の所有になり、広大な庭園はそのままで、県庁や県病院などの公共の建物が建っていたようである。その県病院と広島県立病院付属看護婦養成所と看護婦の寄宿舎では医師、職員、看護婦、看護婦養成所の学生などがいたが、毎日の空襲などのために、看護婦や養成所の学生は患者や医薬品や建物を疎開作業に従事していた。また国立病院などへの救護活動、大野町のチチヤス牧場での健民修練などをしていたようである。原爆と同時に病院の建物は川に吹き飛ばされ、あるいは押しつぶされ、病院で、建物疎開に従事することになっていた人、看護生で試験を受けることになっていた人などは即死、あるいは何日かして亡くなった人がほとんど。
 また救護活動でも市内の教育会館などに行っていた人も亡くなっている。そのほかのところに行っていて難を免れた人が急遽、県病院の避難所に決められ薬品なども疎開してあった古田小学校に駆けつけ、県病院の医師や看護婦や職員はじめおびただしいほどの一般の人に、不眠不休の救護をした。

 河合藤子さんは、チチヤスでの健民修練に行っていて、助かった。私はこの河合さんが、児童館での平和学習の講師として招かれて来られたときに始めてお目にかかり、以後児童館を転勤するたびに平和学習には河合さんに来ていただいた。子どもたちの心に残るお話をされたのだが、それ以上に大人の私たちが感動したのだ。当時の看護婦を志す女性たちがどんなに国家のためひとびとのために尽くすことに心を砕いていたかを心に留めてほしかったからだ。

 この書の、1章は亡くなられた看護婦や看護学生の遺族の方々の話が45編。2章は生存者で「あの日私は]とその日のことを語られたものが30編。3章は、広島県立病院被爆看護婦・講習生公務死認定について、河合さんたちが厚生省に掛け合って、公務死認定を受けた道のり。生存した医師の2人の文章。県病院の沿革。死没者・生存者名簿(1996年第一刷・1998年第2刷発行の書なのでそのころのもの)となっている。

 この書があることを、私は河合さんからお聞きしたことがなかった。偶然今の勤務先である児童館の本棚で見て知ったのである。この児童館の近くに住まわれているので、この児童館に寄贈されたのであろうか。誰に読まれたというあともなくたくさんの本棚の中でじっと私を待っていてくれた。

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