「馬上少年過ぐ」
2011/11/25(Fri)
 司馬遼太郎著 「馬上少年過ぐ」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 伊達政宗の話である。
 本文中に
 
 ≪思い合わせてみると、輝宗(政宗の父)・政宗と同時代の能動家たちの父親は、その子である能動家にとってきわめて都合がよかったことに、彼らは早く死んだ。
 このためその子は早い時期から活動することができた。
 越後の上杉謙信、尾張の織田信長、三河の徳川家康らはみな大名の子で、その父の経営の後を継いでそれを拡大飛躍させたが、その父たちはみなそろって非命にたおれ、早世しているため、彼らは父の代までの旧習に泥(なず)むことなくあたらしい秩序をひらくことができた。ただ甲斐武田信玄の場合だけはこの点がひどく異常であった。かれの父信虎は甲斐を統一した男であったが、信玄はこの信虎のやることが気に入らず、ひそかに近臣をかたらって策謀し、信虎が駿河に旅行したのをさいわい国境を遮断して帰さず、のちこの父を単身京へ追いのぼらせて生涯流亡させてしまった。
 ところが政宗の父の輝宗の酔狂さ(権力主義からみれば)は、生きながらみずからをほうむろうとし、すすんでそのようにした。(そのようにとは自ら早くに政宗に家督を譲って彼だけを残して他の家族を連れて城を出た。しかし結局は政宗は、伊達家のためにまもなく父を死に至らしめなければならなくなる。)≫( )内は私の説明文

 司馬遼太郎は、当時の東北の大名の気分や、当時の東北が働きの割に利の得られない地方であることが、当時の大名としては平仄も韻も正確にふんでの政宗の詩作のなかに現れていることを伝えたかったのかもしれないが、私はこの引用した文章に、釘づけになった。

 たまたま、志村建世氏のブログの「母系制のすすめ」1〜29までを一挙にとうしで読んでいた直後であったからだ。志村建世氏は父親について、父親の権威的な性格ゆえの氏との確執について触れられていた。
 そんな現代にも通じる父子関係の姿を思った。
 この長寿時代、農業の後継者がいないというのも農地も入手できにくいこととあいまって、こんな事情も多少あるのかもしれない。そういえば私の叔父に農家に婿養子に入って、田畑を好き勝手に使って稼ぎまくり、稼いだお金の中から、自由に使った田畑分の代金を養父母に渡し、有無を言わせないようにしたという話を聞いたことがあった。私の父も婿養子だったが、婿養子に入ってまもなく高齢の養父母が亡くなったので、我が家はその頃では珍しい核家族であった。父は、その叔父が乗用車を買い換えるときに下取りさせてもらって乗り始めた。山奥の村での乗用車は第一号だった。養父母から引き継いだ田畑を積極的に道路の拡幅に提供したが、ほかの人が提供しないことによく腹を立てていた。

 私たちのように、引き継がせる家業もなく、ほとんど資産もなく、子どもがどのような職業に就くかわからないものは、親に出来ることは、人としてどうあって欲しいかだけを伝えることだけだと割り切れるが・・・。
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