「大楽源太郎の生死」
2011/11/28(Mon)
 
 司馬遼太郎著 「大楽源太郎の生死」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 大楽源太郎は、長州藩の門閥家老である児玉家の家来で、つまり陪臣、足軽程度であった。
 吉敷郡台道村の旦という漁村で代々寺子屋を開き土地の漁師の子らに読み書きを教えていた。
 そんな家から源太郎が出て、いち早く尊皇攘夷の志士になり、江戸へ下り京で駆けまわり、当時の反幕傾向の知名の士とはほとんど残らず交際していた。
 志士としては、気持ちは大いに志士ではあったが、剣を操ることが下手であったために、いざというときの身の処し方がほかの志士とは違って潔さがなかった。そのために長州の志士からは軽んじられ、あるときは、切腹をせまられもした。志では、大いに自尊心があったために、ほかの志士が名を挙げ実績を上げていくのに常に嫉妬していた。とうとう高杉晋作の「里へかえりな」という言葉に助けられ、漁師村の旦にかえり、老舗の料亭の娘をたぶらかし嫁にもらい、一階が百畳もあるという塾を建て、3年間は大繁盛する。大村益次郎刺殺の教唆をしたとの疑いで、呼び出されたのでここを逃げ、紆余曲折、久留米藩の教授になる。久留米藩では高遇するが、しばらくして、どうも中央の政府から追われているらしいという事がわかり、藩にもといあわせがくる。熟生も、藩がかくまっていたということでお咎めを受けることはお家の一大事と、ひそかに彼を刺殺する。
 
 司馬遼太郎は、長州嫌いの勝海舟が 源太郎のことを、「長州には珍しい男さ」といい、「良さそうな男だったよ」という言葉に、源太郎のことを調べ小説にしたのかもしれない。
 書き終わって、「良さそうな男だったよ」という勝海舟の評語はここまで大楽のことを考え続けても、なおよくわからない。と記している。
司馬遼太郎には、いろんな長州の志士の頂点に高杉晋作などがいて、あるいは頂点に立っていたかもしれないその裾野でうずまく長州人を描いた作品が数あることがおもしろい。
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