「結城秀康」
2011/12/21(Wed)
 司馬遼太郎著 「結城秀康」豊臣家の人々 第七話 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。

 
 秀康とは徳川家康とおまんの間に生まれた次男の於義伊のことである。
 すいてもいないのに、腰をもむ女性にちょっと手を出してできた子であるだけにその出生も家康にうまく伝わらず、認知もされそうにもない子どもであったが、正義心の強い20歳前の長男信康の同情に訴え、やっと認知された。
 さらに、信長が家康の長男信康の器量が尋常でないことを知り、小田家の行く末を案じ、築山殿と信康が甲斐の武田氏と通じているとの嫌疑をかけ自害させたときでさえ、跡継ぎとはされず、とことん家康に無視されて育ったひとだという。
 本能寺の変のあと、天正11年、徳川攻略に外交策をとった秀吉に、養子を差し出すよう求められたとき、やっと徳川の次男として、11歳で養子に差し出されるのである。
 秀吉は長男亡き後の次男であることに喜び、元服をさせ秀康と名を改めさせ、一緒に風呂に入れてやるなどして可愛がる。
 長じて、剣の早業や気概のすさまじさが秀吉や家康の気に止まるようになるが、どちらにも跡継ぎが決まっている以上秀康の万人にぬきんだ器量が宙に浮いてくる。
 そんなおり、関東の鎌倉以来の名門結城家より跡継ぎ養子を求められて秀吉は秀康を養子にやる。秀康は秀吉の直参大名から、徳川家の大名となり格が下がった。
 秀康の器量を知っている家康は、この若者にたいし腫れ物に触るように接し、跡継ぎの秀忠にもその意を充分にいい聞かせ、結城少将どのと呼び、問いかけるときも笑顔を絶やさず自尊心を労わって細心の扱いをした。
 それに対し、秀康は心のうちを表にあらわさずいんぎんにふるまいう。
 ところが秀康は江戸で家康に謁すると国へは帰らずそのまま上方へのぼり、秀吉に望まれ、秀吉が亡くなる1598年、秀康25歳までそば近くに使えた。
 秀吉亡き後、「石田三成と秀頼と淀殿」対「加藤清正と北の政所寧々」との内戦が始まったとき、それを利用して豊臣を滅ぼそうと考えた家康の一手一手はことごとく成功したが、家康は秀康にも「わしを警護してもらいたい」との一手を打つ。秀康は実父から子としてはじめてこのように扱われたことに感激し不肖ながら粉骨つかまつりますると涙を浮かべた。しかし、秀康が、徳川家の跡継ぎである秀忠よりその器量を世に認めさせることのない布陣にも気を使った。越前75万石に封じた後も琵琶湖東岸の長浜城を譜代大名の内藤氏に守らせるなどして、家康は、秀康が秀頼に義兄弟の情を持つことに警戒を強めたが、秀康は夏・冬の陣のまえ本国で病死した。34歳であった。
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