「幕末知られざる決断~尾張藩主・徳川慶勝~」
2011/12/23(Fri)
  NHK 「幕末知られざる決断~尾張藩主・徳川慶勝~」を見る
 あまりにも印象的な番組であったが、家事などで充分に見られなくウクレレビギナーさんのブログを参照にして、記録に残しておきたい。

 尾張藩主慶勝は御三家筆頭でありながら倒幕を決断、明治維新の成立に多大の貢献を果たした。
 当ブログの直前の徳川家康の次男結城秀康を家祖とする。越前松平家といい 幕府に於いて御家門筆頭の扱いを受けていた。一門の藩は福井藩、津山藩、尾張藩、その支藩美濃国高須藩。
 高須藩主・松平義建の次男の慶勝は阿片戦争1840-1842年のあとの1849年嘉永2年に14代尾張藩主になった。兄弟には一ツ橋徳川家11代となった徳川茂徳、会津藩主となった松平容保、桑名藩主となった松平定敬がおり、利発な高須4兄弟と呼ばれた。
 時に薩摩藩主の島津斉昭から、日本を西欧に蹂躙されぬ国にせねばならぬとアメリカの軍艦が日本に行き通商を求めようとしているとの情報を書信にて知らせてきた。
 それで、藩の防衛力を高めるため藩の改革をすることにした。
 1.財政の建て直し。無駄使いの廃止、自分の手元金の減額
 2.知多半島に内海砲台を建設。 軍事強化資料作成、軍事演習のチェック、兵員170   0人の名簿作成、鉄砲隊師範16名の指名 
 3.将軍は朝廷から征夷大将軍の位を貰っているのだから夷を追い払わねばならぬ。
 4.外国に侮られぬ国を造らねばならぬ。

1853年嘉永5年米ペリー艦隊来航では、幕府に開国は時期尚早、艦船、大砲等軍事力充実が先との建白書を出した。だが翌年の和親条約は認めた。
 安政5年、1858年、通商条約が結ばれた。井伊直弼直へ接談判のため江戸城に行ったが、井伊は姿を出さなかった。このあと慶勝は隠居謹慎を命ぜられ、藩主を免ぜられた。35歳だった。以後安政の大獄が始まる。慶勝は江戸新宿の下屋敷に幽閉される。
1860年3月井伊暗殺。幕府の権威は失墜した。慶勝は公武合体を考える。朝廷側が信頼した幕府側の人物は慶勝だった。孝明天皇から太刀を貰っている。謹慎は解かれた。将軍補翼に任命され、また幼い尾張藩主の後見役になった。
 長州藩が公武合体に関心を持ち始めた。桑名藩、薩摩藩と共に京都所司代に任命される。 1964年元治元年に7人が殺された池田屋事件が起こる。この報復のため長州藩は禁門の変を起す。2万の兵が迎え撃った。2万8千戸の家屋が焼失した。この焼失に怒った孝明天皇は幕府に長州征伐の勅命をだした。この征討総督に慶勝(ヨシカツ)が指名されたが、幕府政府を信頼していなかった慶勝は、全権委任の条件が認められるまでは受けなかった。慶勝は15万人の兵を束ね、知恩院を本拠にし次いで大阪城に進んだ。3週間滞在後広島に滞在。写真の好きな慶勝は写真の道具1式持参していた。
広島では水面下で薩摩の西郷に会い和平交渉を図っていた。長州は4カ国艦隊の攻撃をうけ、大敗大打撃をうけていた。長州に力なく降伏。責任者を切腹させた。
しかし慶勝は日本人どうし戦うのはよくない、西欧に対し強い日本を作らねばならぬとの信念を持っていた。
 1866年慶応2年12月、強力な公武合体論者孝明天皇死亡と長州と薩摩同盟ともに幕府は滅亡に向かう。翌年慶喜、大政奉還。慶喜は徳川は日本最大の藩として生き残りを考えていた。しかし慶喜は新政府のメンバーから漏れ、慶喜の領土没収が明らかになり、幕府の過激派が慶応4年京都に進撃したが、新兵器を装備した長州側に鳥羽伏見の戦いで破れた。戦死者長州側5千、幕府側1万5千。

 岩倉具視は慶勝に「朝廷か幕府かどちらにつくのか。弟たちの縁で朝廷と決戦をするのか」と糺してきた。慶勝は戦火を起してはならぬとの信念であった。尾張藩保守派の追放を行い、東海道、中仙道を守る徳川親藩、譜代すべてに勤皇の血判を押させた。また新政府側に
つくよう説得をし750通の誓約書をとった。当然幕府側に立つと思われた岡崎藩もこれに入っている。
 説得は徹底的で400の旗本領や寺社にもおよんだ。
 かくして朝廷、日本を守る方に舵を切った。

 かくて官軍は血を流すことなく江戸に向かえた。1868年開城、先鋒を率いて江戸を受け取ったのは尾張藩主であった。明治になって、職を失った尾張藩の武士のために、慶勝が8万円、現在価値50億円かけて北海道開拓団を設営した。いまは酪農地帯になっている北海道八雲町では毎年慶勝への記念祭をおこなっている。
 慶勝は晩年隅田川河畔の庶民と同じ家に住んだ。

 慶勝は日本の大恩人であるが、殿様が活躍するのは困る、面白くないとして歴史から省かれた。
 
 慶勝は若くして西欧の最新テクノロジーである写真に傾倒した。下屋敷が公開されているが、多数の西洋文物、建物構造配置が見られ、公文書も残し、当時の世情の写真も
多数残した。西洋の科学水準の高さに驚き、軍備の面でも対抗できないことをよく認識していた。

 当時の藩主がどんな部屋に住んでいたのか写真が残っている。
 火鉢があって、コタツがあって、今の家庭の暮らしぶりとほとんど変わりない。うらやましいのは今で言う図書館位の図書室があったことである。

 
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コメント
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八雲町は私の村から車で2時間ほどです。噴火湾を眼前にする雄大な北海道的な町です。尾張藩とのつながりはっきり理解できました。北海道は熊の彫り物が有名ですが、冬場の対策として、ヨーロッパを視察してきた慶勝が、熊彫りを町民に勧めたということは聞いています。アイヌの人が伝承していますが、実は八雲が木彫りの発祥だそうです。八雲は太平洋側ですが、隣の日本海側の熊石町と合併し、二海群八雲町となりました。以前は山越郡です。松前藩の関所があったと聞いています。山越という地名、そのことを物語っているものと思います。合併で古い地名が消えてしまうのも、寂しいものです。
2011/12/23 13:22  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
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 地名がこれほど亡くなると、歴史小説などを理解するのが難しくなるように思い残念です。
 船山馨の『お登勢』や、だれかの『北の零年』で北海道の開拓を想像していましたが、8万円もの造営費用を出しての開拓とは想像を絶するものがありますね。熊の彫り物についてはそんなことがあったのですね。町おこしも考えられるのですね。えいこうさんも、土偶最中などつくって椴法華を売り出してください。
2011/12/23 20:25  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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