「淀殿・その子」
2012/01/01(Sun)
「淀殿・その子」豊臣家の人々 第9話 を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。
 
 淀殿とは、信長の妹お市の方と浅井長政の娘のお茶々のことである。
 そしてその子とは秀吉との2番目の子秀頼である。
 淀殿ことお茶々は、物心ついたときには居城である近江小谷城は秀吉に包囲されていた。3年2ヶ月その状態が続いてある朝、父と対面した後、母親と妹二人かごに乗せられ城を出る。
 尾張清洲城にしばらく住み、母親お市の再婚によって柴田勝家の越前北の庄城(福井市)に移る。そこも秀吉に包囲され17歳のお茶々は二人の妹と一乗谷のかっての朝倉の居城に送られた。彼女はそれからも、山城淀城、相模小田原城の付城、肥前名護屋城、山城伏見城、大阪城。と生涯城を転々とした。

 この作品を読んで、お茶々が秀吉の側室になることで、豊臣家の家臣団の意識がどのように変わったかという、これまで気づかなかったことがうかがえた。

 浅井長政を撃つまでの秀吉の子飼いの武将は美濃の人々であった。
 浅井氏を撃ったとき、信長に浅井家旧領北近江三郡のうち20万石をもらって初めて織田家の大名にのし上がり長浜城にあらたに応分の士卒募った。それに応じたものは当然浅井家の被官や領民が多く、石田三成、宮部祥房継潤、田中吉政、長束正家、藤堂高虎、小川祐忠、朽木元綱、大谷吉継などがいた。彼らは小谷(浅井氏)の姫様がおわす。ということで、殿舎に懐かしみと特別な敬意を払っていた。
 家臣団の中にいた約3割の近江の家臣と、お寧を慕う尾張美濃の家臣団との間にはっきりと対立が起こってゆくのである。
 このことが、関が原の戦いや冬の陣夏の陣に微妙に影響してくるということだ。
 司馬遼太郎は、淀殿と秀頼のあまりの状況認識のなさを描いている。しかし、秀吉にしてみれば、愛してやまないこれらにそれ以上の何を望んだであろうかとの思いがする。
 

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