「小室某覚書」
2012/01/02(Mon)
「小室某覚書」を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。

 短編集の中でもほんとに短編。17ページの読み物である。
 
 誰も取り上げないであろうこうした人物の話を読むのも幕末の前夜の空気が感じられておもしろい。
 小室信夫という人の名が、司馬遼太郎が調べた文献に出てくるのが主に3回。
 そのひとつは、西郷隆盛の征韓論が敗れて野に下ったとき同時に下野した土佐の板垣退助、肥前の副島種臣、土佐の後藤象二郎、肥前の江藤新平が後、愛国公党を結成するが、議会制民主主義についての知識がなく、それを教わるべく後藤象二郎の推薦で小室信夫を呼び寄せたということであった。小室信夫は徳山藩主に伴ってイギリス留学をしていたので推薦されたのであった。そして、愛国公党の趣意書に署名している。しかし後にその方面での彼の記録はない。
 彼の名は、実業界において出てくるようになる。大阪築港、小倉製糸、奥羽鉄道、69銀行、北海道製麻、東京製薬、京都鉄道などの設立に奔走し、晩年多額納税者として貴族院議員に勅選される。
 ところが、司馬遼太郎はのちに意外なことに気がつく。
 彼の名は旧幕時代、小室利喜蔵といった。
 小室利喜蔵は、1863年2月23日三条大橋の下の河原に木造の首3つが獄門台に乗せてさらしてあったという、足利将軍木像梟首事件の下手人の一人であったということである。
 会津の京都警護隊に捕まえられた人たちの多いなか彼は逃れている。のち自首して藩邸の座敷牢に5年を過ごす。新政府になって、徳山藩主は、自分の藩に尊王の志士が居なかったことから、彼らを一躍政治の中心においていくようになったのである。

 この話の中で、愛国公党の趣意書に「権理」という文字が出てくる。これは今でいう権利のことだが、私が大学にいたとき、先生の名は忘れたが、西周たちは急に英語を翻訳するに当たって相当する概念を持った日本語を多くこしらえたが、急ごしらえであったために、いま思えば適切ではなかったと思われる言葉も多くあり、その一例として権利は権理となるべきだといわれたことを思い出した。しかし、この趣意書では権理となっていたので、おどろいた。
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2014/04/28 17:43  | | #[ 編集]
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 コメントをくださったAさんへ
 コメントありがとうございました。
 連休忙しくしていて、コメントを下さっていたことに気がつきませんで失礼いたしました。
 ほかの方法で感謝の気持ちをお伝えする方法がなく、この場を借りてお礼を申します。
 曽祖父が、小室信夫だとは凄いですね。
 連休中、明治4年に広島浅野藩で起こった武一騒動について調べていました。今も調べています。当時、留学して、いろいろな政治形態について見知り、先見の明を持って未来へ向けて活動していた人もいれば、飢饉に加えて、旧制度がなくなることに、これからの政権の行方に不安を抱く民衆に祭り上げられて騒動を起こす先頭を切った人など、いろんな思いが交錯していたことについて考えさせられています。
2014/05/06 17:22  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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