「信九郎物語」
2012/01/07(Sat)
「信九郎物語」を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集六のなかの作品。

 信九郎とは土佐の長曾我部の最後の大名元親の息子である。
長曾我部滅亡の直前に生まれたが母親が卑賤の出であったため公に知られず、母親がいちはやく伏見屋敷を脱出していたためになんを逃れた。
 長曾我部には、京都の寺子屋で子どもに教えてやっと食いつないでいる四男の盛親がおり、盛親に子がなく血流はほかにはこの信九郎以外この世に存在していない。
 信九郎は慶長5年秋の関が原の戦いの後、母親につれられて摂津のスクク郷に流れてきて、慶長19年の夏までを祖父の百姓の家ですごした。
 背丈はのび、力も近郷に及ぶものがなかった。
 19年の秋、豊臣家の家宰大野長冶の家来の平戸甚兵衛というものがたずねてくる。もし東西手切れの場合は大阪城に入城し豊家のためにお働きくだされと黄金十数枚を置き、城内における身分については兄盛親と相談して決めるといって引き上げた。
 数日してすでに入城したという兄の盛親より使いが来た。大阪城へ入城の途上、信九郎の女小つるが、西軍が負けるのはわかっている。生き延びて自分の兄が住職をしている駿河の西奈というところの法専寺に落ちるように語る。そのときはそんな気は毛頭なかったが、防戦もこれまでと悟った盛親が最後信九郎を呼び、「わが遠祖秦能俊が土佐国長曾我部を領して長曾我部氏と称してより今に二十二代になるが、家門の武運これで窮まったとみるしかない。わが血脈はわしとそちしか伝えておらぬ。生きて祭祀をたやさぬようにせよ」といわれ、劇的な脱出をして法専寺に落ち延びる。名を足立七左衛門と名乗って、縁あって駿河田中の城主酒井備後守忠利に召抱えられ、さらに二代目讃岐守が若狭の国守になったとき知行五千石の城代家老になった。

 広島でも長曾我部の姓を聞いたことがあって、長曾我部の子孫の方かと思うことがあったが、盛親は捕らえられて刑死しているので、長曾我部の名はどこからでたのであろうか?
 また、長曾我部は帰化人だといわれているが、やはり秦氏の末裔でもあったようだ。
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