『心理学は子どもの味方か?』―教育の開放へ―
2012/06/10(Sun)
 小沢牧子著 『心理学は子どもの味方か?』―教育の開放へ―を読む。

 心理学は子どもの味方か? 「否」 と答えて痛烈な批判が続く。

 こんな書物があったのか‼
 自分の勉強不足の感をぬぐえない。
 まず、臨床心理学が教育にどのように関与しているかについては、療育センターの存在が思い浮かぶ。
 集団の中で、非常に個人的な行動をとる子どもに対して、普通に療育センターへの相談が薦められているようである。私の職場では、親が困って相談をしてきた時に療育センターがあることをお知らせする。
 そういった子どもは何かと手数がかかるということで、療育センターで何らかの診断がくだされれば、臨時職員の加配が得られるというメリットもある。
 その療育センターの職員が心理学を極め、発達障害や適応障害などの診断のスペシャリストとして登場しているように思っていた。
 私たちの、子どもの障害に関する職場研修で、これらの障害を持つ子どもが最近圧倒的に増えているといわれている。
 たしかにすべての子が適応障害で、おまけに、それを見るのが大変だという私も適応障害なのだ。
 ちょっと情緒豊かな人であれば、金子みすずの「みんなちがってそれでいい」なのだ。
 そのことを、実は臨床心理学の研究者・教育者として、また実践者として過ごしてきた著者が、自分の子育てを通して、心理学の「違いや遅延への対応」が本当に子どもや親の為になるのかと疑問を感じるようになる。
 著者のその問いかけが命がけであることが、その原因を、有史以来たったの40年くらいしかなかった専業主婦の存在にまで言及していることである。
 専業主婦は、家事や子育てを事業として成り立たせているかのような理論武装が必要なのである。思い違いをしては困る、家事や育児は事業ではないという。
 私たちの年代の主婦であれば、私たちの母親が重労働のあいまに自分たちをどのようにそだてたかを思い起こせば感覚的に当然のこととして理解できることではあるが、心理学が、教育現場に厳然として関与する限り親子ともに苦しまなければならない現実があるということである。
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コメント
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 しばらく伺えずにおりましたが、いつもながらの勉学、読書熱心に身がただされます。
昨日、夕刻にNHKクローズアップ現代で「向精神薬を飲む子ども、薬づけをどう防ぐ」を見ました。
こちらでの記事に通じるものがあります。

『まず、臨床心理学が教育にどのように関与しているかについては、療育センターの存在が思い浮かぶ。
 集団の中で、非常に個人的な行動をとる子どもに対して、普通に療育センターへの相談が薦められているようである。私の職場では、親が困って相談をしてきた時に療育センターがあることをお知らせする。』
以上のようにあかね様が記されましたが、療育センターの役割は知らないのですが、其処までなら子どもも親も救われるのかもしれませんが、ことが心療内科や精神科へつながると、子どもが副作用の危険性のある薬を服用させられ、無気力、無感動な人間に成長し、一般社会と隔絶してしまう例が沢山出ているようです。
極論かもしれませんが、岡本太郎氏も、黒柳徹子さんも普通ではなく、現代なら白眼視され、普通には生きられない様相を呈していたように思えるのです。
子どもたちの様々な現れ方を病状のように捉えて、更に悪化させるような教育現場、心理学適用が横行してはいませんか?
とても怖いということを感じました。
適応障害と割り切られた子の悲劇を思うのです。
こうした子の母親たちが疑問を持ちはじめ、動き出している様子がみえましたが、私も機会がありましたら、そうした親たちの訴えや悩みに直接関わり、なにかしら役に立ちたいと思いました。
 今後も関連の記事が見つかりましたら、ご紹介下さい。
2012/06/14 12:52  | URL | みどり #-[ 編集]
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 PCで検索してみたら、この本は20年も前に書かれ、著者には、いろんなところから講演の依頼も盛んにあるようです。
 臨床心理学の功罪については、聞けば、「私はこれに助けられた。人間としての尊厳を失わずにすんだ。」と言う人のほうが多いのではないかと思います。いやだという人はもしかして最初から相談に行かないかも知れませんが。
 私ならどうするか?
 やはり一度子どもを見てもらってお話をきき対処法を聞き、やってみると思います。

 私も臨床心理学を崇高なものだと思っているかというとそうでもありません。

 しかし、あまりにも他の子のようでなければ、親は苦しみます。わらをも掴むという気持ちになります。
 また、親のその取り組みを見て、他の子どもの親も安心するのです。そして、見かけると子どもに声を掛けてくれたりするようになるのです。もし、親がそれを拒否すれば、子どもの異常な行動に批判の目が向けられるのです。
 
 話は変な方向に飛びますが、今日夫の入院した病院にいきながら、広島城の北西に何棟も何棟も高層の公団住宅が建っているのを見ながら、それが建ったときのことを思い出していました。昭和38年に私が田舎から広島市に出て行ったときには、まだありませんでした。いまの平和公園の北の川べりに、原爆被災者などのスラム街がずうっーとどこまで続くか分からないほどあったのを覚えています。そのほかにも私が知らないだけでいっぱいあったでしょう。その対策のために、その後建てられ街がきれいになったのですたのです。その人たちは電気の引込み線もなく、水道管も引かれておらず、七輪などで食事を作っておられたのでしょうか。いま、東北で被災された人が、勿怪の幸いそんな生活がしてみたかったと、そうやってでも生きていきますということができるでしょうか?

 そんなことを考え、平行して臨床心理学のことを考えました。、異常な行動が目に付く子どもの母親は、なにが何でも臨床心理学の世話にならなければならない。いろいろ問題はあるでしょうが、社会がそうなってしまったようです。
 この方は臨床心理学のスペシャリストです。だから自然に自分でできるのです。
 私が、孫のお守りを頼まれても、児童館や、いろいろな施設で世話になるより、自宅で楽しく過ごせるのと似ているのかもしれません。
 こんなふうに考えてしまう私ですから、体力的に、できもしないのに人間社会の原始化にあこがれて山姥なんぞになりたがるのです。
 
2012/06/14 21:31  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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