『街道をゆく 15』
2012/08/16(Thu)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく』 を読む。

 週刊朝日の昭和54年1月号からのものが26話収録されている。
 さいしょの5話が函館について書かれているので、この函館の5話について。

 21年まえの昭和33年に、大阪から羽田に始めて飛行機に乗り、そこから青森の三沢、翌日函館空港と、当時勤務していた産経新聞社の小型機に乗り、今東光と彼の連載小説の取材に行ったときのことをも重ねて、その時との函館のあまりの様変わりを描いている。今、それから33年さらにもっと変わっているだろう。
 『街道をゆく』ではいつも画家の須田剋太氏をともなっているようだが、今東光との時は佐藤泰治画伯であって彼のエピソードも読めて楽しい。

 次に縄文期から、嘉永7年(1854年)4月21日ぺりーが松前藩と掛け合うまでの大まかな歴史がつづられる。本土から「渡」として和人の流亡者が、そして鎌倉期に津軽の安東氏が蝦夷管領を命じられて、さらに室町期には武装した本格的な「渡」がやってきて江差のほうまで20氏も館を築いて、中国と貿易を盛んであった。

 司馬遼太郎が愛した高田屋嘉兵衛についてのエピソードでは、明治24年竣工の東京駿河台のニコライ堂を建てたギリシャ(ロシア)正教の大主教イオアン・ディミトロヴィチ・カサーツキンについてふれている。彼はゴローニンの『日本幽囚記』を読み生涯日本に骨をうずめようと思い、口絵に高田屋嘉兵衛が描かれたものを写真にして持ってきて函館に着くと一番に嘉兵衛の遺族をたずねたという。
 函館ハリストス正教会についてもふれてあり、この教会ができてまもなくロシア革命が起こったので、ロシア教会芸術家たちの最後の仕事になったかもしれないという。これは訪ねてみたい建造物のひとつだ。

 掲載の熊谷博人氏の津軽海峡を中心に描いて、北は渡島半島からの簡略な地図に亀田半島の地名では大沼と函館市と椴法華村だけが書かれてあって、椴法華村の存在やいかに??との感。
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コメント
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「渡」の島で「渡島」です。「ととう」とも読みます。
法華の日持上人が渡ってきて・・・「ととうほっけ」となります。私は飲み友達はこの教会のすぐそばでギャラリーを営んでいます。この環境で飲むのは、最高です。
2012/08/23 13:11  | URL | かわぐちえいこう #-[ 編集]
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納得できました。

 当時、音読みと訓読みを使い分けるということはよくあったようですね。
 本書でも、
 子母沢寛の祖父はもと御家人で、将軍家のことはトクガワとなまよみしては失礼にあたるためトクセンと音でよんでいたとも書かれていました。

 お友達とは、北海道らしい借景の中でのひと時を楽しんでおられるのですね。素敵です。
2012/08/23 21:22  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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