『街道をゆく 14』
2012/08/25(Sat)
司馬遼太郎著 『街道をゆく14』 を読む。
 14巻は、松山城下から南伊予・西土佐への行程である。
 松山は、家康の異父弟久松家の家系であるため、幕末から維新にかけての変動期に、ひどい目にあったことは著者の『坂の上の雲』に詳しかったが、ここでもそのことを伊予人の気風からみての心情で語られている部分があったりしておもしろい。
 その地に行ってみなければわからないことはおおいいが、『花へんろ』で有名な早坂暁氏の講演を愛媛大学で聴き、夜はたまたま夏祭りで城下の繁華街にくりだし、当時の広島では見かけない品のいい浴衣柄を着た町の人たちの姿を楽しんだことがある。
 職場でも松山の人と3年ほど席を並べたことがあり、この伊予風の気品はいつ思い出しても気持ちをやわらげる。
司馬遼太郎も取材で何度も足を運んだであろうが、この松山の持つ気風は彼の旅を癒して十分であったと想像される。
 これが、巻末、西佐国に入ったとたん、すごい言葉の交通安全の教訓看板に出会いこの巻の落ちになっているようなのがおかしかった。ついでにやはり1年、職場で机をならべた高知出身の人を思い出しさらにおかしかった。
 宇和島では、秀吉に人質に出されていた伊達政宗の長男秀宗が10万石をいただいて仙台から入部した。その堅牢な政経のくだりが読み応えがある。ここでは記されていないが、ローマまで使者を送るほどの藩からの入部であることを思わされた。
 吉田藩は、1657年4台将軍家綱のとき宇和島伊達10万石のうち3万石が分知されて成立したという。その吉田町では意外なことを知った。日本全国に吉田町というのはたくさんあるそうだ。私の居住地のずっと北にもある。毛利元就の出生地だ。南に安芸武田氏の居留地があったが、そこは江戸時代八木用水ができるまで米の収穫が少なく、熊谷氏の寝返りもさることながら、やはり良い田をもつ吉田の毛利が勝ったのだとカッテに解釈していた。しかし、吉田というのはもと葦(よし)の生えている湿地であったというところから来ているということであった。葦(あし)は悪いにつながるので(よし)といったということである。その地に排水の設備を作りそのあとを吉田と名づけたのだということだ。今度吉田を通ったときはそんなことを思い出しながら眺めてみたい。

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