『街道をゆく 16』2
2012/09/18(Tue)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく16』比叡の諸道 のつづきを読む。
 読みさして放って置いたが、改めて続きを読んだ。
 比叡山への上り口は4本、東の滋賀県大津市の北、坂本については述べる途中 読者の私のほうが横道にそれてしまったが、以後は、西、京都市側からの話になり、さらに、1000年もつづいている、法華大会(ほっけだいえ)という数年に一度叡山の山上で行われる秘儀をこっそり見学する大冒険の話になる。
 比叡山の本質、歴史、について改めて知るところである。こんなところは、横道にそれないでしっかり確認しなければならない。
 叡山の高僧が代々叡山の役目として説いてきたのは、「鎮護国家」ということであった。その国家とは、古い漢語では「国土を持つ王室」で王朝のことであり、王そのものを国家と呼ぶこともあるという。叡山は平安朝以来、真言宗の東寺とならび王室の檀那寺であった。それゆえ、田畑を開いたものが、なぜ自分の土地に所有権がないのかと、王朝の土地思想に挑戦した武士が起こした鎌倉時代から叡山は失陥してゆく。鎌倉時代、叡山で修行した法然も親鸞も道元なども叡山を去る。その叡山の最澄が終生の論敵とした奈良仏教の空海が開いた高野山との比較については、高野山が空海の超人的な神秘譚を創作しては諸国に撒き散らす高野聖に象徴されるような土俗が持つ逞しさといったようなもののあるなしで、お品がいいというべきかとしている。
 1571年織田信長によって焼き討ちに合う。この焼き討ちのいきさつについても詳しい。
 その後、流浪の乞食の境涯から身を起こした秀吉は源氏を称するために足利将軍の養子になろうとして断られたため、姓を得るために家元の公家にたより、平氏を称した後、藤原氏になり内大臣になり、いっそ四姓のほかに新姓を創始し関白太政大臣になった。天皇を最大限に利用したぶん公家を大切にした。
 しかしそのぶん公家はその後、徳川幕府にうとんじられ「公家はうろうろ町をあるくな」と公家への刑罰権をとられ、さらに秀吉と懇意であった御陽成天皇を退位させられた。以後それとともに叡山の存在も薄らいでゆく。司馬遼太郎は、秀吉の時代養われた公家社会の文学趣味と芸術的嗜好を桂の離宮や曼殊院にみてその美しさをしのんでいる。
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