『街道をゆく 17』 2
2012/09/24(Mon)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく17』島原・天草の諸道のつづきを読む。

後半は、天草。
島原は諫早から東海岸を南に下ったが、天草は、島原の口之津から天草の下島の鬼池(オンノイケ)港にゆく。
 そこから西海岸を本渡市という下島と上島の接点で一番の繁華な町にくだり一泊、後戻りして下島東海岸を富岡城址、そして河浦町までの行程。

 天草・島原の一揆は十字架の旗の下に結束しながらも、その困窮状況は、戦死しなくてもおそらく餓死したに違いない。しかし天草の印象を島原と比較して、本土とつながっていない分詩的なイメージとしては「南蛮」とか「切支丹」とかの語感が明色の好印象で写るという。
 意外な記述では、江戸時代この島では、急激に人口が増加したという。この時代ほとんどが嬰児殺しをしていたが、天草ではキリスト教の影響でそれが行われなかったという。その、人口爆発による貧困が大きく、それを巨大な棚田に感じている。確かに、キリスト教では、堕胎は許されず、40年位前、日本を訪れるヨーロッパの若い金持ち婦人の目的は堕胎であるとなにかで読んだのを思い出す。
 志岐氏の後の尾張出身の肥前唐津城主寺沢氏は天草を統治するにあたって富岡城を築いた。富岡城は、太古は島であったろうと思えるところを天草灘と、島原湾との海流によってできた砂嘴で陸続きになった地形にあり、一揆方の抗戦では城作りの目的どおり大砲によって城は守れ、一揆方を海を渡って島原原城へと向かわせた。
 その、富岡城への長洲に頼山陽の有名な『白天草洋』の「雲耶山耶 呉耶越耶」ではじまる詩碑があり、与謝野晶子の歌も紹介し、天草灘への海風に、遠く呉越などを感じるとをいう。その長洲の行き着くところ東本願寺の門徒寺鎮道寺がある。この寺には勝海舟の落書がある。長崎海軍練習所でオランダ教師団から訓練を受け、1年後に始めて練習航海をしてこの寺に宿を取ったときのものである。3年後の練習航海でもここに宿を取り
 ≪蒸気の御船にのりて再びここに旅寝せしかば
   たのまれぬ世をば経れどもちぎりあればふたたびここに月を見るかな≫
と、ある。
 風景からいえば頼山陽の詩を載せるべきであったが、久しぶりに海舟に出会ったので。
 高浜というところの上田宣珍(ヨシウズ)という庄屋の話がある。
 代々続いた上田家は、もとは真田幸村の家臣滋野氏であったが、大阪夏の陣のとき供の者と西方に兵を募りに出ていて西の果て高浜にすみつき炭焼きなどで暮らしを立てていた。故郷の信州上田をしのんで姓を変えた。その教養に優れ郷土を愛した様子があり、特に、伊能忠敬が幕府の命でここに来たとき入門したという偉人であった。
とにかく、島原・天草についての記録はたくさんあり、歴史がリアルに再現できるらしい。

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