『街道をゆく 18』 2
2012/10/04(Thu)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく18』越前の諸道 つづき100ページ足らずを読む。
 勝山市というところの、平泉寺(現在白山神社)について。
 平泉寺は、もとは山岳信仰の対象であった。
 平安期の初頭の「神仏習合」の思想によって有力な神々は、「権現」「明神」と称する仏まがいのものになってゆくのに習って、通称白山権現となり、白山妙理大菩薩と呼ばれ、祭祀は仏教で行われるようになる。
 寺が中心になり農家の次男三男など浮浪のものたちが、僧と僧兵になり、そこに住むようになった。
 律令制の時代、農地・農民は、国・天皇の、公地公民であり、労働意欲がなく生産性が低いため、墾田の法ができろ。寺院や貴族、地方の有力者が国に登録して荘園を所有できるようになった。
 平泉寺も、浮浪・浪人を使って墾田をし荘園となる所領を増やそうとしたが、力が弱いために国に認められず、それならばと、「叡山」の子分になり、越の小叡山になった。そのため加賀近辺の小さな墾田地主もその墾田を受領に巻き上げられないように白山に寄進し、白山の勢力は中世大いに膨れ上がったという。(このあたりは自己破産しかけた人が破産する前に資産を新興宗教に寄進してしまう現代人に似てなくもない)
 封建制を基盤とする鎌倉幕府の成立によって叡山は多くの荘園を失って衰退するが、白山は、じかに在郷の開墾地主団を多数握っていたために、独立した武士として成長する。南北朝時代、足利尊氏が平泉寺が武力で押収した荘園を認めようとしなかったために、寺は南朝に味方し新田義貞の軍に従軍する。斯波高経と抗戦するが、「藤島庄を寄進しましょう」といわれさっさと寝返り、きのうまでの味方を怨敵とするなどしてさらに所領をふやす。
「日本国一の法師大名」といわれ、さらに、諸国から浮浪の人々が集まって僧になり、平泉寺は僧八千といわれ、北陸路の武力騒動の一中心であった。
 ところが、平泉寺衆から不浄のものとされ、年貢を絞れるだけ搾り取られていた里人農民が、蓮如によって広められ、救いの仏教、浄土真宗で作られた横つながりの講組織によって、天正2年(1574年)4月13日夜、一夜にして平泉寺を焼いて灰にしてしまった。

 この、平泉寺の歴史は、律令制から封建制、祟(たた)る神から、崇(あが)める仏教、そして救う仏教への移行の道筋をあらわに知らしめてくれるものであった。
 その後、領民にとっては、その救う仏教も、やがて搾取する力として作用してくるようになる。

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