『父と暮らせば』
2012/12/31(Mon)
映画『父と暮らせば』をいつの日か録画しておいたのを連続3回みた。

終戦から3年。被爆から3年。広島市立図書館に勤める福吉美津江は、たった一人の家族だった父親を原爆で喪い、生き残った自分に負い目を感じながら暮らしている。ある日、原爆の資料を探しに図書館を訪れた青年と出会い、互いに惹かれ合うが、美津江は「うちは幸せになってはいけんのじゃ」と自分の心を塞ぎ、青年の誘いを断ろうとする。そんな娘を見かねたのか、その晩から美津江の前に父親の幽霊が現れ始める。“恋の応援団長”を名乗る父親は、あの手この手で娘の心を開かせようとする。その後、立ち直って結婚の決意ができた美津江の話。

 主演の宮沢りえをじっと見詰めていて、母の実家のお姉さんのことを思った。
彼女は18年生まれで、色白で美しい人だが顔や腕に被爆の後のケロイドがある。
子どもの頃から何度も手術を受けて左目は義眼だ。2歳のとき広島駅で母親の腕に抱かれていて被爆した。県立体育館の南、もとの市民球場のところにそのころ憲兵隊があり、そこにいた父親に前日面会に行き、一晩市内で宿泊して帰りでの被爆だった。
 私の母親の兄であるおじさんはその墓の命日が昭和20年8月6日となっているのでおそらく被爆して即死であったのだろう。
 私が小学4年生の頃だったと思うが、大学を出たばかりの端正な面立ちのM先生が赴任してこられた。しばらくしてこの先生から手紙や本を預かってこのお姉さんに何度か渡した。子供心にもこれが恋文ではないかというような思いもあったような気がするが、先生があまりにも真摯な態度なので、まじめにこの役割を果たしていた。
 M先生もどこかへ転勤していかれて、数年の後このお姉さんは婿養子をもらわれた。
 (このお兄さんは後、家に被爆したとき買い求めていた汽車の切符とそのとき着ていたワンピースが保存されているのを知って原爆資料館に寄贈され、そのことが新聞に大きく掲載された。)
 このM先生は、『父と暮らせば』の幽霊になって娘を応援し諭す父親のような役割をされたのではないかと思った。そして、被爆後このようなことが実はあちこちであったのではなかろうかと思われた。

 ※12月29日、『児玉克哉のブログ「希望開発」』という児玉克哉氏のブログでは、亡くなられた中沢啓治氏を悼んで、『はだしのゲン』について述べられている。
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コメント
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「父と暮らせば」を連続3回ですか。一回ごとに新しい発見があったことでしょう。私はテレビ放映で見ましたが、忘れられない映画です。方言として正確かどうか知りませんが、独特の語調が印象的でした。
2013/01/02 23:54  | URL | 志村建世 #-[ 編集]
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 あけましておめでとうございます。
 国会周辺めぐり苦労様でした。

 いかに暇とはいえ連続して3度見たくなる映画はあまりないように思います。
 井上ひさしの作品にあらためて感服しました。
 映画の最初に原爆のことを父親が「どひょうしもない」と表現しているところがあります。これは、「とんでもない」と言うほど意味ですが、これは私の父が使っていたのを聞いたことがあり懐かしく思いました。
 中学校を卒業と同時に郷里から出た私は、私の郷里と、広島市内とではまるで言葉が違っていて恥ずかしく思ったものでした。
 今にして思えば、私の父の使っていた方言と思われる形容詞は母からは聞いたことがないような気がするのです。今頃になって、多感なころを戦地で過ごした父はそこでまた少し違った言語の中にいたのではないかとも思いました。
 
2013/01/03 07:45  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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