『うさぎたちが渡った断魂橋』
2013/01/14(Mon)
 山田盟子著 『うさぎたちが渡った断魂橋』を読みました。
 みどりさんからの3冊目です。
 
 ≪ウサギは、東西を問わず、弱者の代名詞でありました。「格子のなかの白ウサギ」は、マニラを明治期に訪ねた俳人が、からゆきにつけた呼称です。しかし内地で格子の張店にならぶお女郎とて同じでありました。お女郎、からゆき、慰安婦を生みだす日本の風土を、初巻で見極めていただきたいのです。
 そのウサギたちが渡った「断魂橋」は、事実として南満州の鉱山の町に在りました。日本人と中国人街との境堀にかけられた橋なのでした。≫
本文最初の頃の抜粋です。

 慰安婦を生みだす日本の風土、というものがどういうものかについては他国のことを知らないので読み込むことのできなかった私ですが、貧しさからとか、強制されて、性を辱められ体を痛められた女性の話だけでなく、男女を問わず奴隷として売られていった人たち、強制されての慰安夫のことにまで話は広がり意外な史実をおおく知ることができました。

 たとえば以前、支倉常長か、あるいは大友宗麟・大村純忠・有馬晴信などの大名の名代としてローマへ派遣された4名 の少年の話を読んだときでしたか、港々に日本人奴隷をおおく見たことの記録があることを知りましたが、どのようないきさつでこのような奴隷がおおくいたのか謎のままでした。戦国時代、鉄砲伝来による硝石の入用によって戦国大名は多くの硝石を必要とし硝石一樽と奴隷50人が交換されたというのです。『五箇山ぐらし』という書では加賀藩で、一揆などの犯罪者を送り込んだ隠れ在所のあの高床式の家屋の床下で塩硝がつくられていたことが書かれていましたが、それは天保年間の話でした。昨夜みた新島襄の妻八重子のドラマの、鉄砲に詰める硝石の混合のやり方についての会話も、彼女の娘の頃の時代でもその程度であったのだから、戦国武将の時代に1樽に奴隷50人というのもありえる気がしました。
 さらに、明治になって三池炭鉱の石炭を三井物産が輸出するとき日本人奴隷も天草の口ノ津から密輸していたというのも大きな衝撃として知りました。
口ノ津は、アフリカの奴隷を売り買いしていた黄金海岸と対比して白銀海岸といわれるほどに人身売買の港であったとの記述で、口之津という地名に、魏志倭人伝に奴隷を「生口」と言っていること、人数のことを「人口」といったりするのを思い起こし、その地名にもなにか物悲しいものを感じました。
 なかでも一番衝撃的なことは、終戦後の遺骨収集団や戦友会などにも旧軍隊の階級があるということで、下っ端の者には声も掛からない、たまたま慰安夫であって周りの世話をしたことで覚えられていて声が掛かったという証言者も写真などに写っている人は上官であって、自分には回ってこないということでした。それも、上官が死んだので言えることだというのです。
 まさしく、上官たちが祭られ、上官の子孫が又祭られるかもしれない神社にお参りすることで、隣国に恨まれ、・・・。
やりきれない気持ちで本を閉じようとしています。
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