『至誠に生きた人々』 ②
2013/01/21(Mon)
 丸山義雄著 『至誠に生きた人々』の第一話を読みました。
 第一話「会津藩の幕末・明治」は著書の主題です。

 数年前テレビで、萩の人たちが、会津の人たちに仲良くしましょうと呼びかけたところ、斗南のご意向もありましょうから、とやんわり断られたといういったような報道を聞きました。
 なんとなく、斗南に押し込められた会津藩主や藩士が去ったあとに残された領主をしたう領民の子孫の気持ちを思って心が熱くなったことを覚えています。

 私たちは3人兄弟だったこともあり小さいころから、広島県の中国山地の小さな村で毛利元就の三矢の教えなどを伝え聞いて育ちました。おそらく会津藩でも、のちの悲劇の遠因ともなった保科正之公の藩をあげての幕府への忠勤と仁政の教え、さらに江戸幕府瓦解のとき忠義の誠を最後まで貫いた藩としての誇りと無念が藩の隅々から近隣にまで語り継がれてきたとおもいます。

 会津では藩士の男子子弟は、6歳になると「什」(ジュウ)という組に入り「什」の誓いのもとに遊びや勉強をし、10歳になると藩校の日新館で、文武両道を学び忠勤の武士としての心構えがきちんと教育されていたということです。 幕末、長州などが身分に関係なく広く軍隊を組織したのに比べ、会津藩は武士道に精通した清強な武士団で戦いの作法にも潔さが際立ったようです。

 そして、斗南に行っても藩の教えを堅く守りぬき、苦汁に耐え、勉学に励み、勝者による歴史観に対して、『京都守護職始末』を著して藩主容保の忠誠の証を立て会津朝敵の汚名を雪ぎました。さらに多くの至誠の人物を輩出していったことへの思いを深く受け止めて、伝えたいとの思いが短く簡潔な文面から熱い思いと共に伝わってきます。

 白虎隊に入っていたのに、年齢がひとつ違うということではずされたために生き残り、東京大学総長を2回も勤め『京都守護職始末』を著した山川健次郎。この人が白虎隊の話になると感極まったというエピソードや、中村半次郎の鶴ケ城明け渡しのエピソードも語り草の名場面。
 このような話も、あの河井継之助が総督を勤めた長岡藩を郷里にもつ著者に語られると感慨もひとしおでした。
 今年の大河ドラマ「八重の桜」は、この書を手元に送ってくださったおかげで、何倍にも深く味わうことができることと楽しみです。

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