『アサッテの人』
2007/11/25(Sun)
諏訪哲史の『アサッテの人』を読む

この作品は、2007年の芥川賞受賞作である。
『文芸春秋』9月号にて読む。
 
≪意味不明な語を突然口に出す奇行のある叔父が失踪した後、甥の〈私〉が彼の日記、習作詩、彼の妻からの聞き書きなどを手掛かりに、彼が何を感じ、何を考え、何を求めていたかを探る過程が描かれる。
そして次第に見えてくるのは、誰の中にもありながら誰も決して口に出そうとはしない、日常の暮らしと強く結びついた奇妙な何か、なのである。
言葉の問題にしても、言葉一般としてではなく、吃音の発語との関わりを通して現れる。
日常との緊張関係がこの特異な作品世界を終始しっかりと支えている。≫
これは、黒井千次氏の選評の一部分である。
内容をまとめてあったのでここに引いた。

いろいろな選評を読んでいると、「ああそうなのか」と勉強になる。

小川洋子は、≪叔父さんの体温を感じる≫と言っている。

池澤夏樹は、≪哲学的英雄譚に拍手≫といっている。

石原慎太郎は≪文学の、言葉の不毛≫と言い、≪この作品に関する限り、作者の持って回った技法はわたしには不明晰でわずらわしいものでしかなかった。≫
同じような内容では太宰治の『トカトントン』という作品があり太宰の作品の方がはるかに直裁に感覚的に伝えている。と述べている。

村上龍は≪退屈な小説だった。≫と述べている。

高樹のぶ子は、≪候補作品中最も重量感を感じた≫とある。

宮本輝は≪そんな手の込んだことをしなければならないものかどうかは別にして、言語についてのある種の哲学的論考が、私には所詮観念にすぎない思考の遊びに思えた。≫といっている。

次に引く3つの文は、吃音に苦しむ叔父の日記からの引用文で、この作品の主題をなす部分の一部の文章である、こういった表現には感心した。
ただ、この作品の手法については本当に、わかりにくい気がする。
もっと違った手法で一気に読ませていただきたいという気がしなくもない。

≪言葉の頭の一字を「キ、キキ、キ、・・・キ・・・キ、キ、キキィキ・・・・・・」と、息の尽きるまでどもり続け、第二音にたどり着く前に行き倒れてしまうのである。
そんなとき私は落ち着いて落ち着いてと心で念じ続けながら言葉をまったものだが、昏倒寸前の叔父の苦しみを、目の前でただ見ているというのは辛かった。≫

≪「・・・・僕の生はまるで目的語を失った修飾句のようだ。
打ち寄せるき架空の文末を目指し、幾重にも昂まり行く波頭の岸辺はいまだ遠く、荒れ狂う大海は僕を無情に溺死させる・・・・・」≫


≪少年の頃偉大な統一と見えたもの、それは世界の本質を構成し、機能させるところの、ある種の文法に他ならなかった。僕が死に物狂いで手に入れようとした言葉のリズム、ある一定の波長は、そこへのチューニングが可能となった今、逆に僕をその律の内に緊張し閉じ込めようとするものだった≫
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