「死なない蛸」
2013/06/03(Mon)
  萩原朔太郎著「死なない蛸」を読みました。ここに引用します。

 ≪或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。
 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた。
けれども動物は死ななかった。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。まずその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。
 けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、尚且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に   <おそらくは幾世紀の間を通じて>   或る物凄い欠乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた。

  散文詩自註

生とは何ぞ。死とは何ぞ。肉体を離れて、死後にも尚存在する意識があるだろうか。私はかかる哲学を知らない。ただ、私が知っていることは、人間の執念深いイデアが、死後にも尚死にたくなく、永久に生きていたいという願望から、多くの精霊(スピリット)を創造したということである。それらの精霊(スピリット)は、目に見えない霊の世界で、人間のように飲食し、人間のように思想して生活している。彼らの名は、餓鬼、天人、妖精等と呼ばれ、我等の身辺に近く住んで、宇宙の至る所に瀰漫している。水族館の侘しい光線がさす槽の中で、不死の蛸が永遠に生きているという幻想は、必ずしも詩人のイマヂスチックな主観ではないだろう。
※イマヂスチック・・・・ ロマン主義に対抗する、写象主義的な。≫

今ではこの詩にかかる思いが理解できそうな気がすると同時に、なぜかいつも意識の底にある福島原発の燃料棒を思い浮かべさせもするのです。
 
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