『明るいほうへ 父・太宰治と母・太田静子』
2013/08/18(Sun)
 太田治子著 『明るいほうへ 父・太宰治と母・太田静子』 を読みました。

 やはりみどりさんにいただいた本です。

 太田治子は、太宰治が、妻以外の女性太田静子に生ませた娘として有名な人ですが、ふれるのは初めてです。
 太田治子は、働きながらひとりで育ててくれた母親から太宰治との思い出話をいつも聞かされていました。さらに、その母親の残した日記を細かく読みくだいていきます。
 名作『斜陽』がほとんど母の日記からの引用であることをのべ、その母親への太宰治のその時々の思いを、作品としてかきのこさている他の親族や当時の作家仲間や関係した編集者の記録と母親から聞かされていた話や日記にかかれている事柄を照合して細かく分析しています。残された娘の悔しい思いが伝わってきます。あまりにもリアルで、いままでそんなことをほとんど知らずに読んでいた若かりし頃の私など、以後太宰治の作品に触れることがあれば、週刊誌の三面記事を読むような心持で接していくのではないかと思えてきます。しかし多くの読者が、そんなことも承知の上で太宰文学に傾倒しているとすれば、そこに高い芸術性があるのでしょうか。
近年読んだといえば、ブログをはじめて以後『津軽』を読んでいます。そのときの思いはまったく忘れていたので、再びここに掲載してみます。

   ≪『津軽』は、昭和19年太宰治35歳の時、小山書店から「津軽」の執筆を依頼され、5月から6月に津  軽を旅し、11月に出版されたものである。
   太宰治は津軽の生まれである。
   津軽の金木の出身で、中学を青森で過ごし高校を弘前で過ごす。
   そして東京帝国大学に入学し東京での生活が始まる。
   故郷を離れて東京で暮らし、自分はいったい何者なのかといったことを考える時、自分は津軽の人間であ   り、しかも家を引き継ぐことの無いオズカズ(三男坊や、四男坊をいやしめて言う時に使うこの地方のことば  )である。
   都会人の自分には不安を感じるが、故郷に帰ってはオズカズであることを自覚して振舞わねばならないと心  に決めてのたびであった。気質は津軽を受け継ぐも、オズカズに宿命づけられている。この戸惑いが、文中の  本流をなしている。
   津軽半島の中ほどに太宰治の生まれた金木がある。その北西に竜飛岬に近いところに小泊と言うところがあ  る。
   その、小泊というところに病身の母に代わって子守として雇われ、3歳から8歳まで自分の面倒を見てくれ  教育をしてくれた〈たけ〉が嫁いでいる。その〈たけ〉に会うのが、この津軽の旅では一番の楽しみであった  とある。
   故郷と言えば〈たけ〉を思い出すと語っている。
   ここのところでは夏目漱石の『坊ちゃん』の〈きよ〉の存在を思い出す。
   松山での教師生活に見切りをつけて、東京に帰っていく坊ちゃんが〈きよ〉のことを思っているのと二重写  しになる。
  〈次から次と矢継ぎ早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて無遠慮な愛情のあらわし方に接して、  ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだいの中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあ  るのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気付いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をは  っきり知らされた。〉と最後に書き記している。
   津軽の起こりや歴史を古今の文献に求め、それを確かめつつ、また、津軽の自然や風物を懐かしみ、人との  心の触れあいの中に、自分の育ちの本質を探して長い旅をしてきたが、自分を育て、本当に心の友となれるの  は、太宰治の家に働いていた人達だということであろうか。
   司馬遼太郎の『街道を行く 北のまほろば』には、太宰治の『津軽』から津軽や津軽の人の特徴をとりあげ  てあることがおおい。それが、とても興味深く書いてあるので、『街道を行く 北のまほろば』を中断して先  に『津軽』を読んだ。
   『津軽』は昭和19年に津軽を旅行したものであり、『街道を行く』は平成6年に旅行したものである。   その間50年の年月が流れている。
   太宰治の『津軽』は、若い頃に少し読んだきり読んでなかったが、この度読んでいていやみのない品のいい  作品だと思った。≫

  『津軽』を書いた19年は、8月にお産を控えた奥様がありながら、1月に太宰治は恋に落ちていた太田静子  を3年ぶりにその疎開先の住まいに訪ねて、また逢う約束をしていたそんなときでした。

   みどりさんのおかげで、さらに記録していたブログのおかげで、いい作品だと思った作品が泥沼に咲いた蓮  のようなものであったことに気づかされたのでした。

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コメント
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 神奈川近代文学館で太田治子さんに2度お会いしました。
治子氏と格式ばって言えないような、柔らかい物腰の作家でした。求めた本は、並べばサインもして下さったのですが、私はあえてサインを求めませんでした。
 戦後しばらく、随分お金のない苦労をしたようです。
その名残りのように、原稿は100円ショップで買う鉛筆と消しゴムで書くとの、こぼれ話がありました。
 確かに妻ある男が、他の女性と恋愛感情を持つのは良くないのかもしれませんが、人の感情には、どうしてもコントロールできないものが湧き上がります。
「津軽」は気取りのない、太宰治の良さが全編に出ていましたね。
 昨年、「斜陽館」と「津軽」の風光に触れたくて単行本片手にまわりました。若い時の憧れとは違った歴史的な背景も探りながらの旅でしたが、行って見て、食べて、泊まって、本当によい思い出ができました。
太宰治の座った座敷、津軽塗のお膳、火鉢を前にして、何故か涙が滲みました。
東北に留まれなかった太宰治ですが、もしも「津軽」を契機として、そのまま津軽に住みつき、穏やかな家族の中に安住していたら・・・玉川上水での情死など起こり得なかったのに等と。もしもの想定は有りようが無いことですが、津軽という土地の佇まいが、このような想像をかき立てました。
「太宰の何処がいいの?何故好きなの」と問われた過去がありますが、明快な答えは未だ出ません。
10代の貧しく苦しかった時代、触れた数々の作品に溢れていた優しさが、一番の魅力でしたが、ある面で見せる弱さ、虚しさが当時の私を包み込んでくれる気がしたのです。
あれから半世紀以上経た今日、自分の抱える弱さが薄れたとも思えませんが、太宰離れしたことは確かだと思っています。
 太田治子さんは島津家には疎まれた存在でしたが、紛れもない太宰治の娘さん、色白の言葉やさしい面影がよく似ておりました。
 面倒がらず読了なさって下さった事が嬉しいです。その上にも丁寧な読後感、あかね様の心情に重なり、会ってお話しているような気持ちになりました。
2013/08/20 15:19  | URL | みどり #-[ 編集]
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 素敵なコメントありがとうございます。
 都心、またはその近辺に住んでおられる方と、地方に住んでいる私たちとはずいぶん違うと、ブログをはじめて、親しくしてくださる皆さんに思うことですが、太田治子さんに2度もお会いになられているなんて、何とかより都の昼寝といった感じです。ヒロシマの8月5日の大会に出かけて、全国特に東京のいろんな人の話を聞いたときも、この方々の話はとっくにみどりさんなどは以前に聞いておられるのだろうなと思いながら聞いていました。
 太田治子さんの容貌についても百聞は一見にしかずですね。私は母親の太田静子が似ていると書かれてあった阿修羅像の顔と、父親である太宰治の写真とから想像力の乏しい頭であれこれ考えるしかありません。
 みどりさんが昨年津軽を旅されたのも思い出しました。みどりさんにとって津軽は忘れがたいものになっておられるのですね。私は吉田松陰が処刑される前年くらいに旅したのと、太宰治が旅したのと司馬遼太郎が旅したのとみどりさんが旅されたのと4つ読んでいることになります。さらに志村さんも十三湖方面を旅されていましたね。今夜は津軽をいろいろに思い描いて眠りに付きます。
2013/08/20 23:02  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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