『渾沌未分』
2013/09/01(Sun)
 岡本かの子著 『渾沌未分』 を読みました。
 十六歳の初子は没落した経済力のない父親とふたりの貧しい暮らしをしています。        
 薫という若い男の子の肉体への欲望がありながら、事情のために50男の貝原の妾にならざるをえない身の上で、父の泳法を継いで、貝原の援助を受けて水泳の先生として遠泳会の先導をまかされ、葛西川の河口にかかり遠泳会の終盤を迎えたそのとき、

 ≪小初はだんだん泳ぎ抜き、はなれて、たった一人進んでいるのか退いているのか、ただ無限の中に手足を動かしている気がしだした。子初がむやみに泳ぎぬくのは、子初が興奮していたからである。初め小初は時々の自分の側面に出てくる薫の肉体に胸が躍った。が、その感じが貝原の小初を呼びたてる高声に交り合ううち、両方から同時に受ける感じがだんだんいまわしくなってきた。反感のような興奮がだんだん子初の心身を疲れさせてくると薫の肉体を見るのも生々しい負担になった。貝原の高声もうるさくなった。子初はむやみやたらに泳ぎだした。生徒たちの一行にさえ頓着なしに泳ぎだした。するうち子初に不思議な性根が据わってきた。こせこせしたものはいっさい投げ捨ててしまえ、生まれたてのほやほやの人間になってしまえ。向こうものが運命なら運命ぎりぎりの根元のところへ、向こうものが事情なら、これ以上割り切れない種子のところへ詰め寄って、掛け値なしの一騎打ちの勝負をしよう。この勝負を試すには、決して目的を立ててはいけない。けっして打算をしてはいけない。自分の一切を賽にして、投げてみるだけだ。そこから本当にふたたび立ち上がれるだいじょうぶな命が見つかってこよう。今、なんにも惜しむな。今自分の持ち合わせ全部を投げ捨てろ・・・一切合財を投げ捨てろ・・・。
 渾沌未分・・・・・
 渾沌未分・・・・・
小初がひたすら進み入ろうとする世界は、果てしも知らぬ白抱の波のかなたの渾沌未分の世界である。
「泳ぎ着く処まで・・・・・どこまでも・・・・・どこまでも・・・・・誰もけっしてついてくるな」
と口に出しては言わなかったが、小初は高まる波間に首を上げて、背後の波間に二人の男のついてくるのを認めた。薫は黙って抜き手を切るばかり、貝原は懸命な抜き手の間から怒鳴りたてた。
「ばか・・・・・どこまで行くんだ・・・・・ばか、きちがい・・・・・子初・・・・・先生・・・・・子初先生・・・・・ばか・・・・・」
 風の加わった雨脚の激しい海の真只中だ。もはや子初の背後の波間には追ってくる一人の男の姿も見えない。灰色の恍惚からあふれ出る涙をぼろぼろこぼしながら、小初はどこまでもどこも白濁無限の波に向かって抜き手を切っていくのであった。≫

 作品最後の部分を全部抜き出し、これが彼女の不可思議の行動の心持を言い切っているような気がしていましたが、彼女が彼女の運命をそのように感じていた部分があったことへも思いが至り、この末文が岡本かの子すべてのような気がしてきました。
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コメント
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 作品の多くに、女の情念が燃え盛っているような感じを受けましたが、読んだのはいずれも十数年前、記憶も薄らいでしまいました。
この作品には惹かれませんでしたが、私なりに選んだ著書には
「老妓抄」「生々流転」「金魚繚乱」などがあります。機会がありましたら読んで頂きたいと思います。そうして不躾ながら、あかね様の読後感を伺えたら嬉しく思います。
当時ですが、かなりの作品を読み学びました。
講師は駒場に在る、日本近代文学館に勤務されておりました。
岡本かの子が青春時代から好きで、研究なさった女性でした。
かの子さんは和歌も堪能で、私には覚えきれませんでしたが、色々思い出します。
2013/09/01 17:50  | URL | みどり #-[ 編集]
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 読書は、楽しみとして、自分とは距離がありそうですが、彼女の作品は、隣人の話を聞いているような錯覚に陥り、ついつい身を乗り出して読んでいるときがあります。
 今読んでいる昭和43年集英社発行の日本文学全集74 岡本かの子には、「老妓抄」「金魚繚乱」が掲載されているので、楽しみに読みます。
今は「母子叙情」を読んでいます。昭和29年角川書店昭和文学全集41昭和短歌昭和俳句集には岡本かの子の短歌が掲載されています。着物を着る機会のおおいみどりさんに一首届けさせていただきます。
 ≪かたちよき老婢が袖の紅絹裏(モミウラ)よ昔しのぶがあはれなりけり≫
 年齢によって裏地を替えて年相応の風合いを出すのに、それができていないことの哀れさを読んだのかななどと、勝手な解釈をしているのですが本当はどのような気持ちを読んだのでしょうか。
 
2013/09/01 21:35  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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 私もよく解っている訳ではありませんが、古文に於ける「あはれなりけり」は現在の私たちが概して言うところの哀れ、可哀そうだ・・・という解釈で終わらない気がしています。
紅絹の裏地は老いても用いたようですし(特に袖口や裾まわしに)たぶん昔は美しかったと思える女を見ていると、その若かりし頃も浮かんで来て、しみじみとした感慨に捉われました。というような解釈も成り立つようで、和歌の解釈は数学のように、答えは一つと決めなくてもいいような、許容範囲の幅があっても可と思えます。
 かの子さんなら「年甲斐もなく若づくりして、なんとも哀れねぇ~」というような、冷やゝかな眼差しでは、歌わなかったと思いたいですね。
2013/09/02 23:27  | URL | みどり #-[ 編集]
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 いつもこうトンチンカンな解釈をしているのかと思うと大笑いなのですが、みどりさんのお話からもう一度読み返してみるととても情趣あふれる歌になりました。和装することも、和装の姿を見かけることもなくなって、その趣をあじわう心まで失い、紬などの裏地は若い頃は紅や朱を用い、年齢によって黄や空色やねずみなどに仕立てなおしていきますと和裁の学校に通っていた頃学んだ固定概念に縛られていた自分が露見されました。わからないから解釈しないで読みすごすという姿勢でしたが、このたびは無理やり解釈して、みどりさんに教えていただけたので、十分に味わうことができうれしかったです。
 広島はずっと雨です。もう10日も雨に閉じ込められているような気がします。間で警報なども出て3日仕事場が休館になりました。広い窓ガラスにうっそうと覆っている南京ハゼのみどりにとても癒されています。
2013/09/03 07:59  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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