『私の履歴書』
2013/09/23(Mon)
 佐々木譲二著 『私の履歴書』 前編・後編を読みました。 

 山陰を訪れて、いつもお世話にばかりなっている夫の姉のところに心ばかりのお土産を届けに行きました。
そのとき、義姉が、「面白くてついつい一生懸命読んだのよ。」といってこの本を薦めてくれ借りて帰りました。
 著者の佐々木譲二さんは、広島県加計町からフィリピンに移住された両親のもと、昭和7年11月21日当時アメリカ領であったフィリピンのマニラに生を受け、昭和20年10月23日マニラから広島市宇品港に帰国され、21年加計町立国民学校高等科1年に入学されました。この加計町立国民学校高等科に同じく入学したのが義姉の夫、義兄でした。この義兄が今年夏、加計町立国民学校高等科の同窓会を催し、その同窓会に出席された著者がその後この冊子を義兄のもとに贈ってこられたのでした。
 義姉の言葉通り、とても興味深い書でした。
 前編は、出生から終戦で広島に帰るまでの記述でした。
 帰る直前の6月一緒に山中を逃亡中に弟のひとりが死亡、7月ルソン東北部の東海岸で別行動だった父親も死亡のため、母親と姉、兄、弟の5人で乞食同然の姿で広島県加計町に帰ってこられました。
 戦前のフィリピンはスペインの植民地の後アメリカが統治していたので、日本よりもずいぶん衛生的な生活だったようです。19年10月頃からマニラから北山中への逃亡が始まる前、貿易商の人の家に疎開していたとき、貿易商の仕事にあこがれるようになられました。
 後編は昭和20年に加計町に帰ってから、平成8年の3月に笹川記念保健協力財団を退社するまでのことが記述されています。
 加計に帰るやマラリヤ熱に冒され、母親と兄は脚気で入院、姉は呉市に就職、弟と二人で親戚の小屋で暮らすことになりました。21年に入学した加計町立国民学校高等科を23年に卒業するのですが、卒業式の前日に入院中の母親が亡くなります。
 卒業後6月に帝国製鉄加計工場へ就職、翌年2月製鉄所の経営不振で解雇され、親戚筋の農家に薦められて養子に入ります。7月、籍が入っていなかったこともあり、姉のいる呉に家出をして、日亜製鋼呉工場に入社、社長の好意でそこから翌年呉三津田高等学校に入学、昭和30年卒業します。と同時に日亜製鋼呉工場を退社し上京。それからずっと貿易関係の職場を何社か勤めたあと平成2年笹川記念保健協力財団入社、平成8年退社のすこし前からこの「私の履歴書」前編を書き始め、平成8年にワープロで自費出版されました。私の手元にある本は、さらに平成18年にパソコンで打ち直し写真なども取り込んで、再販されたものです。

 貿易会社にいたころは、ミャンマー・タイ・フィリピン・台湾・中国・韓国・アメリカに、笹川記念保健協力財団に入社してからは、ソビエト連邦・崩壊した後のロシア・ウクライナ・ベラルーシにと、あわせて合計68回もの海外出張の経験談や、扱った製品の数々、貿易の許認可の手続き書類のあれこれにはたいへん興味がありました。笹川記念保健協力財団へは、チェリノブイリ原発事故後発生する放射能後遺症の検診調査を原爆症対策に経験のある広島・長崎の原爆関係者と、大学医学部のご指導のもとに、ソ連に援助事業を行うので医療機器と、それを輸出する経験があるため手伝ってくれないかと願ってもないお声がかかったとのことで、3カ国5つの援助病院出張も興味がありました。
 ソ連が崩壊する前と、後どう変わったのかということも行くたびたびの報告でリアルに伝わってきます。
 ミャンマーのことなどもなにもわからずにニュースを見ていたのだとつくづく思いました。
 旅行で訪れるのと、仕事で訪れるのとは、その地方の経済状況や、行政のあり方が伝わってくるからでしょうか、まったく違うことは国内の経験しかありませんがよくわかります。
 前編の部分を読んでいるとき、小学校3年の頃の話に
≪砂場でトンネルを掘ったり遊んでいたところピストルの弾の未だ撃っていない弾が続々出てきて遂にピストルまで出てきたのには驚いた。アメリカ兵か、フィリピン兵がバタンかコレヒドールに退却する際、埋めたのであろう。≫というくだりがありました。直前丁度山陰の島根県斐川町の荒神谷遺跡で買った博物館の本に358本もの銅剣が「なぜ埋められていたのか」の項で埋納諸説が5説掲げられていましたが、逃げるのに埋めたという説はありませんでした。荒神谷遺跡の銅剣は祭祀用に使われ、作ってまもなく埋められたのではないかといわれていますが、敵が攻めてきたとき、あわてて隠して逃げたということも考えられはしないかと思ったことでした。
 最後に、著者はこれだけ海外に出かけていても、いつも仕事の出張ばかりで、旅行で出かけたことはなく、奥様も海外に出かけられたことがないので、退職後、夫婦でドイツからスイス、フランスそしてドイツへの10日間の旅行に出かけられたという一文がありました。
 この、旅行のコースと、一昨日、9日間のヨーロッパ旅行をした職場の方が、チョコレートやクッキー、お人形の土産をくださいましたが、彼女のコースが、フランスのモンサンミッシェルが多いだけでほぼ同じだったことに偶然性を感じました。
 自分の生活の中で、日本の戦中戦後はよく知っていて、世界もおおかたこれが一つの区切りのような歴史をたどっていると思いがちですが、発展途上国と思われている国が植民地時代にずいぶん衛生的な生活をしていたけど独立して事情が変わったり、社会主義国で、国民が不自由な生活をして他国から高額の援助を受けている国がじつは資源や資産を豊富に抱えていたり、ほんとうに行って商売をして見なければその国の国情はわからないことがたくさんあり、それも1・2年で事情が変わったりで、年を隔てて行ってみなければわからないことが多いいと思いました。著者も、そういった過去や未来への疑問が次々ふえて、時々にこのことについて勉強してみたいという願望をすなおに記述しておられます。もちろん読者もその疑問に興味を持ちますので、その後の著者の視点での研究結果のレポートも書いてくださればいいなと思いました。
 


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