『沢庵』
2013/10/14(Mon)
 水上勉著 『沢庵』 を読みました。
 これもみどりさんから頂きました。とてもよい本でした。
 沢庵は遺戒で、「年譜行状を筆作すること莫れ」と申し述べているのですが、門人で武野宗朝が遺言にそむいて『沢庵大和尚妓行状』『東海和尚紀年録』を編み、沼田藩士で工藤行広という人が『万松祖録』を編み、沢庵の事蹟、短歌、詩文などを残しているのだそうです。本書は、できるだけ残された記録を忠実に書こうとして、これらの難解な漢文で書かれたものを、思文閣出版刊行の荻須純道著『沢庵和尚年譜』の訓注と併記するなどして説明してあります。ですから難解な用語満載です。漢文などは適当に通り過ぎながらの読書になりました。
 昭和61年に学習研究社(学研)から、書きおろし歴史小説シリーズの1冊として出版されたものですが、読んでみますと、歴史小説というより、伝記の読解書の解説書といったものです。著者は、沢庵の生きた時代背景と、同じ時代を生きた他の禅僧たちの紹介にも力点を置いて、沢庵の一生を私たち読者に語ってくれます。
 1573年の十二月1日に但馬州出石邑に生まれ、剣のように鋭い性格であり、道を志せば必ず心に得ることがある、という子どもだったので両親は出家をさせたとあり、戦乱の世に生を受け、しかも、亡ぼされてゆく山名氏の出石城の下級武士の子として幼少を送り出家したことがわかります。7歳で出石の町なかの臨済宗宗鏡寺へ父に連れて行かれます。10歳で宗鏡寺を出て浄土宗の唱念寺へ入りましたが、臨済宗の宗旨を慕って再び宗鏡寺へ入ります。20歳のとき京都大徳寺の董甫宗仲が宗鏡寺へきたので熱心に彼のもとへ参禅し、3年のち董甫宗仲が京都の大徳寺に帰るときともに京へ上ります。董甫宗仲とのち石田光成の菩提寺となる大徳寺山内三玄院へ入ります。大徳寺住持春屋宗園より宗彭(ソウホウ)の号を受け、沢庵秀喜は沢庵宗彭となります。下級武士だった父の不運と思案によって7歳から寺に入ったものの、転々せざるを得ない運命のため放浪の末に京都の禅寺に入って禅の道に馴染んでゆきます。途中三部経に打ち込んで他力派の生活を経験していることが普通の禅宗小僧とちがい後の沢庵に大きく作用したと、僧侶の経験もある水上勉は語ります。
 出石の宗鏡寺ではスポンサーの領主の山名宗詮が織田信雄に攻められて敗走し、大徳寺三玄院や、佐和山瑞嶽寺ではやはりスポンサーの石田光成が関が原の戦いの後打ち首になり、無常流転の中に不変なるものを求める眼が宿るのも必然。そして、後の徳川期の禅僧は、苦しみぬいたとも語ります。禅はもともと権力を認めない、大も小も高も低も、美も醜もみとめず存在をあるがままに認める対立的に物事をいうことがない平等無差別の宗教です。幕藩体制は、ことごとく宗教を幕府の管理下においていきます。沢庵は、権力に屈することなく紫衣事件で流され、そして許された後に、禅の道を究めたいと願う三代将軍家光に尊敬を受けても、正法護持、純粋禅を伝える大徳寺の勅許復元以外には何も望みませんでした。何度か読み返し、武家社会にあっての剣禅一致の沢庵の生き方、澄んだ気配をだんだんに感じた読書でした。
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