『米百俵』
2007/12/03(Mon)
山本有三の『米百俵』を読む

これは2場からなる戯曲である。
山本有三が戯曲を書くことは知らなかった。
1場は、明治3年4月の末。
長岡藩士の貧しい住まいで、息子が頼山陽の『日本外史』の通読をしていて父親にそんなに本が読みたいなら坊主にでもなれと叱られている。
藩は維新で、幕府方に付いた長岡藩。3度の火災に遭い、石高も三分の一に切り下げられ藩財政は厳しい。
両親は食うや食わずの生活で、分家藩から見舞いとして送られた百俵の米が藩から藩士たちに配られてくるのを今か今かと待っている。
そこへ、友達の藩士がお酒を持ってやって来る。
娘が町人の物に手をかけたというあらぬ嫌疑をかけられたので町人のところへ怒鳴り込んでいったら、町人がお酒を持ってわびに来たが、武士が町人に馬鹿にされるのは、藩の政治が悪くて藩士が貧乏をしているからだと悔しがる。
そこへ、他の藩士が駆け込んできて、藩の大参事が、米百俵を藩士に配らずに学校を建てるといっていると怒って伝える。
意見をしに行こうと誘いに来たのでみなで一緒に出かける。

2場は、大参事小林虎三郎の住処。
大参事小林虎三郎は病気の体で夜遅くまで藩主に差し上げる書類をしたためている。
そこへ、怒りに満ちた藩士たちが押しかけてくる。
そして現状の藩士の生活苦を訴え、藩の政治のやり方についての苦情を述べる。
それに対して、大参事小林虎三郎が、こうなった原因は、人材がないせいで皆が食っていけるように教育によって人を育て、この長岡藩を立て直そうといさめると言う話である。

そのあとやはり山本有三著作の「隠れたる先覚者 小林虎三郎」がある。
これは、昭和17年5月13日にJOAKからラジオ放送をし、さらに雑誌『改造」7月号にも発表された。

山本有三は、小林虎三郎の意思と行動に大変感動し、このことを世に知らしめることにあらゆる努力をした形跡がこの書でうかがわれる。
例えば、小林虎三郎の師である佐久間象山については、このように文章で現すには漢字を当てればよいのだが、劇で音で伝えるには、「ショウザン」というのか「ゾウザン」というのかはっきりしなくてはいけない。
その研究にいくつもいくつもの資料に当たり考察している。
佐久間象山の塾では吉田松陰(またの名を寅次郎)と小林虎三郎は象山門下の「二虎(にこ)」と呼ばれたほどの秀才であった。

この秀才を見い出して、世に伝えようとした山本有三。


≪小林先生がこの論文(「興学私議」)を書いた、安政年という年は、どういう年でありましょうか。
それは安政の大獄で、有名な年であります。
すなはち、幕府は、小林先生と同門の吉田松陰先生を伝馬町の獄屋において、処刑した年であります。
それは吉田松陰先生ばかりではありません。
橋本左内先生、頼三樹三郎先生というような立派な人々を、死刑に処した年であります。
同じ年に、一方では、人材を作らなければいけないと言っているのに、一方では大根でも切るように、立派な人物をざくざくきっております。
人材を切った幕府は、そののち、どうなったでありましょうか。
皆さんもご存じのように、それから、何年もたたぬうちに、つぶれてしまっております。
一方越後の片隅で「興学私議」を書き、百俵の米を土台にして、ちいさな国漢学校を開いて、人物の養成に力を尽くしてきたところからは、誰が出てきたでありましょうか。
今、連合艦隊司令長官、山本海軍大将のことを思い起こす時、私はじつになんともいえない感慨にうたれるのであります。・・・・≫

≪私は、今、「日本は勝つのだから、大東亜の指導者になるのだから、人物をたくさんそだてあげなければいけない。次の時代に備えなければいけない。」と大きな声で、叫ばずには居られないのであります。≫

この書を読んでいると、時代が世の逸材の人達に要求した課題といったことに行き当たる。
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