『辻村寿三郎』
2014/01/03(Fri)
 辻村寿三郎著 2000年発刊の『辻村寿三郎』 を読みました。
 2014年1月2日、今年始めての読書です。午前中は家事に費やしひと段落したので、みどりさんからいただいた本を集めたみどり文庫から、ためらうことなく『辻村寿三郎』をとりだしました。辻村寿三郎は私が高校時代をすごした三次の出身ときいていましたので、三次と彼の人形づくりの関係を知ることができたらと思ったからです。
 余談ですが、三次は広島藩(浅野藩)の支藩であったことがあり、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の妻阿久里の実家藩で、阿久里の終焉の地となった鳳源寺があります。また江戸で活躍して甥の頼山陽の教導にも力を注いだ頼杏平が加禄されて三次町奉行専任となって郡務を努めた地でもあります。
 期待にもれず彼が三次で過ごした状況が丁寧につづられていました。ただ、彼は三次で生まれたのではなく、1933年に満州錦州省朝陽で生まれ、1944年に母親と日本に引き上げ広島の大芝で1年過ごし、原爆投下の4ヶ月くらい前に母の故郷である三次に移り住み上京するまでの11年間を三次で過ごしたのでした。ちなみに私が小学校に入学する年に三次を離れたということになります。満州で母親は将校クラブ風な料亭を経営していて、彼は母親が芸者さんたちに教える芸ごとをみて育ち、三次では、祭りが好きで芸ごとが盛んで歌舞伎から、剣劇ものの芝居小屋から新劇まで全国を巡業している劇団は必ずといっていいくらい興行の足をのばしていたという土地柄で幼年時代から芽生えていた人形好き芝居好きが助長されたと述べていました。
 私が三次というと三次高校時代の3年間を思うのですが、彼の語る三次は、私の生まれた村からバスで1時間くらいかけて三次にたどり着いた山際に、先に述べた鳳源寺があり、すこし先に浅野神社があり、そこから南に広がった当時の大きな繁華街かいわいのことで、幼い頃、買い物や映画や歯医者に連れられていき当時親戚もあった街のことでした。高校に進学してはじめてそれまで行ったことのない川の向こうの高校や駅や市役所などの官公庁やNTTや総合病院などがある三次のほかのところを知ったのでした。高校に進学してからは、父が車を乗り回していた頃でもあり新しい道路もできていて繁華街の裏側の新しい道を大きく迂回して行き来しており、最近までほとんどその繁華街を通ったことはありません。でも、やはり、高校にはそこらあたりらしきところから通ってくる級友たちもいてその人たちだけが垢抜けて美しい人たちだったような気がします。読みながら、三次のことを懐かしく思い出しました。
 もう一つ思い出したことは、以前やっていた「にこにこぱっちん」という人形劇についてです。いったいこの辻村寿三郎の文章は哲学的で、倉田百三のものを読んでいるのかと勘違いするようでした。私が代表で人形劇をやっていたときは常時13人くらいのメンバーのやっていることを見ていて必要なものを調達してくるというようなことをやっていたと思いますが、人形劇について深く考えるようになったのは人形劇をやめてからです。私は出演することはなくてほとんど観客の後ろに立ってどんなところで観客が心惹かれるかをじっと見ていました。でもメンバーがそれぞれ一生懸命やっているのでどの場面が良かったとか、誰の演技が良かったとかみんなにはなかなか言えませんでした。今思えばボランティアにはそんなあまさが付きまとうということです。地方のテレビ局の取材を受けたのを機会にNHKの取材を受けたことがあり、絶品だと思っていたTさんが演じるのウンチが漏れてしまったときの映像が放映されたときは、やはりそこの部分が一番目にとまったかと思いましたがとりわけTさんを褒めたことはありませんでした。いろいろ正月から考えさせられた読書でした。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
<<『麒麟の翼』 | メイン | 『白蓮れんれん』>>
コメント
-  -
辻村寿三郎氏は、最近はジュサブローと銘しているようです。
「人形町」という駅を降りると寿三郎氏の人形が展示されている小さな会館があります。氏のつくった人形の館です。
あれから何年経たのか咄嗟に思い出せませんが、私たち3姉妹で、どうしても氏の創る人形に会いたくなりました。
幸い、ご本人が狭い奥の方の隅で人形の衣裳を手作りしておりました。男性にしては驚く程、なめらかで美しい肌の方でした。優しく声をかけて下さったのですが、私たちの質問にも丁寧にお応え下さいました。
そこで得た知識で、忘れられないことが一つあります。
「あなたの干支は何ですか?」と問われ「私は辰です」と申しましたが、「向かい干支の方を生涯大事にしなさい。それが倖せを運んでくれますよ」と私の手に小さな小さな戌の置物を下さいました。私の向かい干支が妹の戌であったことが不思議でした。妹には言葉に尽くせない程沢山の支えを受けて来ましたから。
姉には姉の向かい干支のものを下さったのですが、そのものごしの優しさと言葉の温かさに涙が滲みました。其の時素晴らしい人形の沢山載った写真集を買ったのですが、後に人形創りをなさっている方に、差し上げてしまいました。お見せしたかったです。
一度でも寿三郎氏にお会い出来て幸せでした。
あかね様の高校生活の思い出に繋がる三次の町、なにやらゆかしく思われます。
広島三次には旧い歴史が色々ありますね。
 住井スエ著「橋の無い川」はお読みですか?
そこにも三次が出てきたような記憶があります。
あかね様に色々書いて戴くと、私の埋もれていた記憶が少しづつ浮かび上がり、懐かしくも嬉しく思います。
 ありがとうございました。
2014/01/07 21:59  | URL | みどり #-[ 編集]
- みどりさんへ -
本に辻村寿三郎のサインがありましたのでお会いになったのだと思いました。
しかもとてもいい出会いだったのですね。
たまたま同じ地域にべつの時期に暮らしたことがあるとは大違いですね。
三次の大きな建物のいくつかの建設工事にかかわったことのある夫の三次の町の掌握にくらべて、「ほんとに三次にいたことがあるの?」と夫に良く笑われてしまいます。
 『橋のない川』は丁寧に読んでいませんが家に7巻そろっています。ただ、私が卒業して4,5年たったとき三次高校では差別事件で一人の女子高校生が自殺をしました。その10年後、私が教育実習に行った学校の教員室で三次高校事件の分厚いファイルを目にし、許しを得てコピーをさせていただきました。その頃は、子育てや単位取得や母の看病で忙殺されており、やっと5年後くらいに読んだのですが、どうしても事件の内容がイメージできませんでした。しかし、さらに後年偶然に、自殺した子の担任だった先生についての情報を得ました。私が高校生だったとき物理が好きで、下宿にも遊びに行っていた物理の先生がその担任で、その事件のあと遠くに飛ばされたのだと聞きました。その話をきいたときは先生は関東の国立大学の付属中学の校長になっておられるともきき、物理にかまけていた先生の足元でこんな事件が起こって人権教育という分野に強く踏み込まれていったのではないかと思いました。そんな情報を話してくれた同級生は、この先生が担任だったそうですが下宿のお寺には遊びに行ったことなどはなく、私は先生が同学年のクラスの担任だったことも知らず、当然のことなのに同じ時期おなじ高校にいても記憶に残ることのおおきなちがいに驚いたことでした。
2014/01/08 11:01  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://yamanbachindochu.blog106.fc2.com/tb.php/622-5dc3bbc9

| メイン |