『武一騒動』
2014/06/04(Wed)
 金谷俊則著 『武一騒動』広島・旧浅野藩下における明治農民騒擾の真相 を読みました。
 この本は、本屋で求めたのではなく、山県郡大朝町の教育委員会に問い合わせていただいて、「道の駅」のようなお店に夫と出かけて買い求めました。
 夫が読んでない間にそっと読んでは、夫と感想を話し合いました。
 広島では明治4年におこったこの「武一騒動」は有名です。
 この騒動の直接の起因は明治4年7月14日に突如断行された廃藩置県によって、全国260余藩は廃止され、県となり、県の行政は中央政府から派遣される官吏に委ねられることになり、旧藩主は罷免されて、東京へ移住することを命じられたことによるのです。
 山県有朋が中堅官僚層からの上申を受けたことから始まり、間髪をいれず断行の運びとなったようですが、日本に居留していた西洋人にとっても大きな事件として横浜で発行されていた9月2日の英字新聞でも報道されていると、本文の抜粋があるのですが、英文なので割愛して、たまたま平行して読んでいた小泉八雲の関連の資料でも、この廃藩置県の断行について、ヨーロッパでは100年はかかるであろう内容の政治改革を、一瞬でやってのけたことに驚きをもってみていたようすが日本語訳されての感想として書かれてありましたので、むしろ、庶民にとってこの廃藩置県は維新より衝撃的な政治改革であったことが伺え知れます。
 とりあえず、浅野藩でもすでに東京に在住していた藩主の浅野長勲以外の家族が、8月4日に東京へ出立の運びとなります。長勲夫人、藩主の伯父に当たる前藩主の長訓とその夫人、その前の藩主夫人、さらにその前の藩主夫人、長訓の弟、懋績、懋昭などです。
 ところが、これらの人々が、8月4日広島城内を出立したところ、城下を埋め尽くした多数の農民によって阻止され、出立は延期になります。
 農民たちの表向きの願いは、浅野家へのお別れのご挨拶と選別をお渡しすることです。しかし、本音のところでは、浅野家が自分たちを捨て置いて東京に行ってしまうと、今後自分たちの生活はどうなるのかとの大きな不安があり、いかれたらこまるというものでした。この農民たちの騒動は拡大の一途をたどり、城下へ参集した各郡の農民や民衆たちが竹槍や鎌をもって、商家や県官の屋敷を襲撃しはじめ、市中の暴動は瞬く間に広がりさらに、そういった訴状に同意しない長百姓、村役人、庄屋、割庄屋をも家を壊したり火をつけたりして攻め立て、元来農民を説諭して、落ち着かせる役割の人たちをも、自分たちの不満を城下で訴えるよう連れ立っていくのでした。県庁では群集に高札などによって説諭を試みましたが、さらに気勢を上げ高札を倒したりで効果がなく、ついに鎮撫を決定し、13日午前5時より兵隊を進撃し、空砲での効き目がないため実弾による射撃を開始するに至りました。そして、捕縛者の処罰を始めます。
 この書は、この騒動の実態と、中でも一番おもい処罰を受けた、山県郡有田村の森脇武一との関係が、問われている書だともいえます。
 山県郡奥山組割庄屋の山本五郎左衛門周辺を詳しく描くことによって、誰か首魁がいて暴徒化したのではなく、それぞれの地域で自然発生的に騒動が起こっていたようすを描き、さらに武一という人は和歌などをたしなむ、沈着冷静な人柄 であることを取り上げ、その不可思議さを問うています。

  書きおくも片身になれや筆の跡 幾年過ぎても墨やくちせじ

 梟首になる直前の武一の辞世の句です。
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コメント
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 明治4年の廃藩置県の頃にはまだまだ、維新後の不安な動きが多かったのでしようね。此の記事、おもしろく読ませて頂きました。
広島の事は原爆投下ぐらいしか知らずに来てしまいました。
秩父困民党という抵抗勢力の存在は、映画や書籍で少し学びましたが、やはり首謀者と目された人は人格高かったようです。
そうした方々が、天皇に背くとか反逆者扱いされ、大勢処刑されてしまいました。
 以下のこと等は、詳しく知らない内容ですが、子孫が無実を国に訴え出たり、名誉ある復権を求め、法に訴えたということを過去に読んだ記憶があります。
 ご夫君共々、郷土の歴史を学び掘り起し、歴史の真実を探る姿勢に強く共感致しました。
おかげさまで私もお二人の学びに触れ、広島が此れまでより近く感じられます。
2014/06/05 15:15  | URL | みどり #-[ 編集]
- みどりさんへ -
 著者の金谷俊則氏は、広島市の出身ですが森脇武一が出た県西北の山県郡で開業されている内科のお医者さんです。
 県下のおおくの市町村史誌や、学術書を紐解き、自分なりにまとめ、わかっていることと、検証できないものとをはっきりさせておられます。
 参考文献には、もちろん私が住んでいる通称可部町の昭和51年にできた『可部町誌』もあります。私が古文書を学んでいた頃できた本です。しかし、退職してから大方三日に一度くらいは顔を合わせる近所の加川さんがいま古文書クラブで解読しておられるのですが、読んでおられるものには、私がいたころ解読されていた資料が多々あります。私がいた頃、解読したものに間違いがたくさんあるとおっしゃっています。ほとんど、私がいたときのメンバーの方々(皆、亡くなられています)が『可部町史』も周辺町村史も解読の依頼を受けて編纂にかかわっておられました。とりあえずは、あらゆる資料に目を通して、できる限りの解読をして全貌をつかんで、あわてて編纂されたのでしょう。落ち着いて読み返してみると、間違いが多いのだとおもいます。こうなると、私たちも、実際に史跡を歩いて、消し去ることのできない何かから自分の廃藩置県を体感するしかないようです。
2014/06/05 21:25  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
- みどりさんへ 追記 -
 後に子孫が訴えるという話についてですが、武一には男女二人の子どもがいて、息子と、娘婿は皮肉なことに、西南戦争で戦死するのです。
 娘の子どもであるお孫さんが、武一の近所の名田さんというかたが、武一のことを広く世に知らしめようと本をかかれたが、出版するお金がぜんぜん足りないことを知って、援助されたことが書かれてありました。
 戦争には時効がないということですが、こういったことは、どうなのでしょう。
2014/06/05 21:49  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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