『特攻とは何だったのか』
2014/07/09(Wed)
 三枝成彰・堀紘一共著 『特攻とは何だったのか』日本人としてわすれてはいけないこと を読みました。
 この本は、みどりさんからまた新たにたくさん贈っていただいた本の中の1冊です。
 三枝成彰氏の生涯最後の作品として「特攻隊」を作りたいという意向を知って、累計で300冊くらいは太平洋戦争に関連する本を読んでいるという、堀紘一氏が、「台本を書かせてもらえないか」と申し出たことにより、創作について話し合いをしているうち、二人の論理を一冊の書として世に問うことも意味があるのではないかと、出来上がった書のようです。
 おふたりの対談形式になっています。
 1942年生まれと、1945年生まれのふたりですから、体験者でも戦史研究者でもないのでと、山岡壮八著『小説太平洋戦争』と保阪正康著『「特攻」と日本人』を引用しながら、論理を深め確認していくという対談になっています。
  ≪序章 何のための戦争だったのか≫
  ≪第1章 フェーズ1「偶発的、自発的な時代」≫
  ≪第2章 フェーズ2「強制命令の時代」≫
  ≪第3章 フェーズ3「供物と化した時代」≫
  ≪第4章 フェーズ4「統率なき時代」≫
  ≪終章 我らがオペラとして遺す意味」≫
 もう、この戦争には事実上負けてしまっている。それではと終結を有利にするための一発勝利による講和方針をたてるが、それも不成功に終わり、まともに戦える状況は何一つ残されていない。そういうところから、「特攻」という考えが出現し、しだいに悪化する局面に応じて、「特攻」の意味合いが変化してゆくさまが「フェーズ1」から「フェーズ4」へと順を追って検証されています。
 しだいに≪陸海軍の指導部が理論的思考を一切失い、戦争が軍事でもなく政治でもなく美学にも似たカタルシス状態となっていた≫と思える状態からの特攻命令。
 変化する状況下での戦術への考察。自分を納得させて死にむかうひとりひとりの若者の命への思い。「英霊」でも「犬死に」でもない「特攻論」が展開されてゆきます。
 堀紘一氏は、空気に流されやすい日本人と日本社会、空気が読めて、空気でものが決められるというこの国の民族の特徴はほかに類例がない。それはよきものとして生かされるのはとてもいいが、程度をわきまえないと空気の力の暴発、過ぎたる情緒の横溢でまた国家を誤りかねないと訴えています。
 三枝氏はあとがきのはじめで、≪誤解を恐れずにいうと、私は日本人という国民は全体主義が好きであり、この国に民主主義は育たないと思っている・・・マスコミはもとより、国全体が、同じ意見を求め、同じ方向に向かう「癖」がある。そのため、反対意見を封じ込めたり、抵抗勢力を認めない。何か大きな風に流されていく人々、それが日本人でありだから民主主義が育たない。・・・いまは「護憲」を唱えると、すぐ「左翼」とみなされてしまうが、それこそ言論弾圧ではないか。自由にものがいえる社会こそ民主主義だとすれば、その意味でも日本はおかしいといわざるをえないと「不戦論」の立場を唱え、憲法九条を護っていくことが特攻隊をはじめ先の戦争で亡くなった人たちの「思い」を引き継ぐことではないかと訴えておられました。
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コメント
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いつもながらの、きちんと読後感を綴る努力に敬意を抱いております。
私など、あかね様のブログに出会って以降、度々「読後感をまとめなくては・・・。まとめておきたい」と思いながら、実際は10回に1度位、やっと自分なりの感想をまとめています。今年も同じことの繰り返しになり、どうしたらそうした時間を生みだせるのかと悩みます。ただ読み捨てゝ次に向かうのが精一杯なのです。
 この三枝成彰氏の本は宮前区の隣に存在している「高津区九条サロン」での三枝氏の講話を直接伺った折に、手にした著書でした。
歳月の流れに追い立てられ、何ごとも思い返すことは少ないのですが、氏の平和への強い思いは偽りのない事実として受け止める事が出来ました。
その際の発言に、ご自分の生涯賭けて「オペラ三部作」を完成するとの希望が語られました。また上映した映画に「ジュニア・蝶々夫人」がありました。待ち続けたピンカートンが妻帯していたことを知り、蝶々夫人は懐剣で自害します。その時ピンカートンが蝶々さんの育てゝいた息子の存在を知り、我が子として連れ帰るのですが、やがて青年となった息子(ジュニア)が母の母国日本を訪れ、母の幻影に逢えるという哀切な筋書きでした。
 其の後「特攻」にまつわる物語は無事にオペラに創作され、2010年12月でしたか?に「東京文化会館」で大成功だったようですが、私は観に行く機会を得ませんでした。その作品は知人の話ではDVDとして6,7000円程度で売られたようです。題名は「神風」だったかも知れません。
 今日、こうしてあかね様が書いて下さったお蔭で、聞きたかったオペラと三枝氏の現在を検索する気持ちが動きました。
PCで三枝氏のオフィシャルサイトを捜せば、色々曖昧になってしまった記憶がハッキリするものと思います。
 何はともあれ安倍内閣の暴走の歯止めに、特攻にされた青少年の無念が再認識される機会や、怒りの世論があればと思うばかりです。
2014/07/10 10:38  | URL | みどり #-[ 編集]
- みどりさん -
> >  この作作品については、最初から最後まで、ある意味2冊の本の読後記録と感想ともいえます。本を読んで事の次第を知り、作者の意図を知り、自分なりの考えを表明する。ということになると、たしかに内容によっては1冊の本に書き著しても著しきれないものがあるのではないかと思われます。
> >  時々思うことがあります。この読後記録を書くことを自分に課していなければ、どんなに読書が楽しく人生が伸びやかだったろうかと。みどりさんいじょうに私のほうが筆を取ることに関しては下手ですしにがてです。でも、読書しかしない私が、何らかの形で世界ネットのパソコンと繋がっていたいと単純に思ったとき、読書記録しかなかったというのも正直なところだったような気がします。 農家で生まれ、末っ子で躾をされていないせいか身についたものがなくて、あらゆることを自分で考えて自分に課して行かなければなりません。まだ勤めていたときは、仕事と職業倫理という枷がありましたが、失業してしまうとそれもなくなったので、さらに苦手な英訳などを自分に課してゆき、その課題で溺れそうです。
> >  それで、生活を簡素にするために決めました。出かけるときに着る服はこれ、山に行くときに着る服はこれとこれとこれ、その他家にいるときはこれとこれとこれと、決めることにしました。すると、靴も持ち物もおのずと決まってきます。災害に遭うとこの程度で暮らすかな、という感じです。何で早くこのことに気がつかなかったのかしらと捨てられない服の入った衣装缶や箪笥を恨めしく眺めています。
> >  話は戻りますが、ふたりの著者が、最後に日々どんなことに閉塞感を感じているか、このような閉塞感を感じるようでは、過去の過ちに対する根本的な厭世観というか反省がないから、日本はいずれまた同じような道をたどると心配しています。まさしくいまそんな感じで、止めようもありません。若い人たちがセクト主義をやめて、広くこのような動きに反省を促すような行動を繰り広げてくれたらと、祈らずにはいられません。
2014/07/10 16:57  | URL | 深山あかね #-[ 編集]
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2014/07/10 17:12  | | #[ 編集]
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