『日本の心』(二)
2014/08/02(Sat)
 小泉八雲著・平川祐弘編 『日本の心』を読みました。と(一)で書きましたが、正しくはその中の平川祐弘訳の「生神様」だけでした。そして、このたびはその中の仙北谷晃一訳 「夏の日の夢」だけ読みました。
 それは、偶然暑さのきびしい8月1日の早朝、3時頃目覚めて、読んだのでした。
 読み終わって不思議な気持ちになりました。
 千年以上の年月が頭の中に「もやー」と薄い霞のようにあるような感覚です。
 ハーンが日本で始めて帝大で「文学論」の講義をしたと広島ラフカディオ・ハーンの会に参加するようになって何かの資料で読んだ気がします。漱石の「文学論」は30年前頃読んだ記憶がありますが、ハーンはどのような講義をしたのだろうかと思います。彼のこの作品からうけるこのような感覚はどのような「文学論」の系譜から生まれたのでしょうか。
 浦島太郎の物語を想起させる浦島屋という名前の旅館を後にして熊本に帰る途上を描きながら、ふたつの物語を語り、その物語について思いをめぐらせます。短い行程の中に、この二つの物語から、今ではすべて塵となった何百年もの長い年月を行きかった数限りない人々。その塵の一つである現世の自分。長い年月の幻の霞の中の自分。読み終わってもその中に朦朧と存在する自分を感じます。
 物語の一つは浦島太郎です。浦島太郎は故郷に帰ってきたものの、もう字も読めなくなったような自分の墓を一族のお墓の中に確認して、自分は400年以上も前に溺れ死んだことを知ります。浦島は、海神の娘である妻に渡された玉手箱が幻想の原因かと思い箱を開けてしまいます。とっさに白い幻のような煙が立ち上り浦島は急に精気を失い砂浜に倒れてしまいます。
 ハーンはこの物語から夢想にふけります。そして道々考えます。箱から出た幻のような煙はいったい何であったのだろう。≪時代を経るごとに新しい魅力を加えながら千年もの長きに渡って生き続けてきたこの物語は、そこに何ほどかの真実がなければなるまい。・・・・一体浦島を可哀そうに思うのは正しいことだろうか。勿論神々は浦島を途方にくれさせようとした。しかし神々を相手に途方にくれないものがあるだろうか。生そのものが迷夢以外の何ものであろう。途方にくれた浦島は神々の意図するところを疑い、玉手箱を開けてしまった。そして何の苦もなく息絶えた。人々は神社を建てて浦島明神として祀り上げている。それなのにどうしてそんなに憐れまれなくてはならないのだろう。≫  
 海神の娘である妻こそ、浦島が愚かにも自分との約束を破って箱をあけてしまったことも知らずに浦島の帰りを淋しく待っているのに誰にも慰めてはもらえないのは何故。
 そしてもう一つの物語は、ひとりの年老いた木こりが木を切りに山に出かけ、のどが渇いて清水を飲んだところ若返り、あわてて帰って妻に知らせ、妻も清水を飲みに行き、たくさん飲みすぎて赤ん坊になってしまい、夫が途方にくれる話ですが、浦島について夢想した後では、滑稽さを楽しむことは不謹慎であるかのように、この話は以前ほど魅力的でないと評しています。
 この二つの物語のバックミュージックのごとく、往きすぎる村々からは雨乞いの太鼓の音が聞こえます。そして、電線に止まる鳥たちは一様に一番上の電線に止まり、風の吹いてくる方向の道に向かってとまっています。これらの構成によって織り成されるハーンの世界に酔い、危うく8時半の勤務を失念しそうになるのでした。
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