『日本の心』(三)
2014/08/03(Sun)
 小泉八雲著・平川祐弘編 『日本の心』の「永遠に女性的なるもの」を読みました。
 この作品では、タイトルからハーンの女性観といったものを汲み取れるのかと思ったのですが、そんな私的な感性の表出ではありませんでした。
 これまでにない、西洋人の根幹をなすものの見方、感じ方を知ることになりました。
 本文の前に≪人間に譬うべきものを天に探せば いたるところに僕らの比喩が見つかる ぼくらはナルシサスの眼をもって自然を眺め いたるところおのれの影に見とれるのだ―ワトソン≫とありました。
さらりと眼を通して本文に入っていったのですが、じつはこれがハーンが説明するところの西洋人の感性を如実にあらわしていると後になって気づかされるです。
 なるほど、英語に女性名詞・男性名詞のあることもやっとわかってきます。
 この作品のテーマは、ある学生の「先生、イギリスの小説にはなぜあんなに恋愛や結婚のことがしょっちゅう出て来るのですか、そのわけをおしえてください―私たちには奇想天外のことに思えます」の質問への返答の困難さから出発します。
読み進んでいくうちに、私は戸川幸夫の「人はなぜすけべなのか」という本のことを思い出さずにいられませんでした。この本は世の中のいろいろの生物の繁殖行為を生態学的に述べたものです。結論は、あらゆる生物のうちで人間の子どもは自立するまでの期間が長く、しかもその自立を支えるために母親と父親双方の助力を必要とするために、両者が、絆を持つために生まないセックスをするというような話です。
 西洋人と日本人を比べるとき、対比として違った生物の対比をしている感を持たなければ理解でき合えないということなのでした。もちろんハーンがそう述べているのではなくこの例は私のつたない感想です。少なくとも狩猟民族と農耕民族の違いくらいはあるでしょう。
 なんにしても、自然の恵みによって生きている人は自然の法則そのものを賛美し、狩猟によって生きる人は、他の動物への人間の体の優位性を賛美するのかもしれません。また、他の民族から略奪することによって生きている人は、ナルシスト的な発想を持つようになるのかもしれません。
 また、美術品を通しての解説もあります。人物の美しさを写して自然をめでる西洋人に対して、自然の美しさそのものを純粋にめでる日本人。
 ある意味、西洋人の人物の美しさを当てはめずにはめでるこができない美意識を偏狭と見れば、それを超越した自然への憧憬のほうが自然をよく表していると西洋の人々への説得を試みています。
 ≪例えばわれわれの最上の昆虫の絵と日本の同種の絵とを比べてみるがよい。・・・・細微の限りを尽くしたヨーロッパの版画が達成したものは、冷たい写実に過ぎぬ。それに対して日本の絵師は、理解を絶する解釈の妙味を発揮して、その生物の形態の特徴はおろか、動きのあらゆる特色に至るまで、数回にも至らぬ運筆のうちに把握し、描出してしまう。日本の絵画の絵筆からおどり出る絵の一つ一つは偏見に曇らされることのない感受性を持つものにとって、一つの教えであり、啓示である。≫というようにです。
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