『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 (3)
2014/09/04(Thu)
 牧野陽子著 『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 第3章〈顔〉の恐怖、〈背中〉の感触―「むじな」「因果話」 を読みました。
 ヘルン文庫蔵書目録にはハーンが濫読した、東洋、南洋の伝説・民話集がたくさんあるのだそうです。
 十九世紀後半、欧米ではこれらの作品が多く流布したということですが、ハーンが人生の最後に取り組んだのは、これら異国の“採話”ではなく、極めて自覚的な文学的営みとして、彼の内面世界の投影も見て取れる“再話文学”の領域であったと述べられています。
 その代表的な例として、「むじな」が取り上げられています。
 「むじな」への考察は、ハーン文庫にある町田宗七編『百物語』(明治27年)のなかの「第三十三席」御山苔松の全文が掲げられ、そして、ハーンの書いた英文も、その訳と交互に全文が掲げられ、比較されています。この話のもとの話は、『百物語』の話し手である、御山苔松という名前からして、「おやまのたいしょう」とも読める名前で、人をかついでおかしがる「化かし話」なのです。しかし、ハーンの「むじな」はおかしみとなる部分は削除され、無限でありながら閉ざされている闇の中で、むじなという不可解な怪異が繰り返し突きつけてくる「顔のない存在」、つまり後姿しか把握できない存在というとは、ハーンにとってどんな意味を持つのかとの疑問で、「因果話」に研究の目が向けられていきます。
 「因果話」は『百物語』の松林伯円による第十四席がもとになっています。ハーンのこの作品はあまり、選集に選ばれないそうですから、あらすじを書き記します。
 死の床にある、大名の奥方が、側室の雪子を呼んで、庭の桜が見たいのでぜひおぶって庭に出て見せてくれといいます。雪子が言われたとおりにおぶると、なんと、奥方は腕を雪子の胸に廻し、その乳房を掴んだまま高らかに笑って事切れてしまいます。不思議なことに、この手は何としても離れず、やむなく欄医が死体を手首のところで切断します。乾涸びた死体の手は、昼間はそのままですが、毎日決まって夜になると、まるで、巨大な蜘蛛のように蠢き始め、胸を締め付けてきます。雪子は出家して尼になり、奥方の位牌を携えて一人行脚のたびに出ます。彼女は放浪の旅のなかで、毎日位牌に許しを請うが、邪悪な因果がそれで消えるはずはなく、深夜になれば再び「手」による拷問が始まります。これが数十年前のことで、その後杳として彼女の行方が知れない。という話です。
 原話は、「死ぬにも死ねぬ身の因果お咄申すも恥ずかしき」という節からとられ、人間の煩悩と業の深さを表す事件を示し、最後に教訓をたれる説教説話だと説明されています。しかし、ハーンの作品は、世俗性をすべて廃し「手」が生々しい存在で迫ってくる恐怖を強調し、奥方の死骸を背負い続け、その霊とともに闇の空間をさまよい、雪子が背負って歩むものは、愛欲や嫉妬というものではなく、前世というようなものを感じさせる宇宙空間だと述べます。これは、漱石の『夢十夜』の「第三夜」を連想するとの解説に出会うと、やっとその思いを共有することができます。
 ≪道はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。只背中に小さい小僧が食いついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉く照らして、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。≫
 さらに、漱石は背中の子が石地蔵のように背中に重くのしかかるところで筆を止めているが、ハーンはさらにその恐怖を受け止め、そこに一種形而上的な美を認めて、身をゆだねている姿について、ハーンの幼児期からの恐怖を日本の民話に出会う中でさらに完成させていったことが述べられています。


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