「草ひばり」
2014/09/12(Fri)
 小泉八雲著・ 森亮訳 「草ひばり」 を読みました。
 すでに、1,2回読んでいます。しかし、明日の広島ラフカディオ・ハーンの会への予習として、読み込んでいます。
 今読んでいる牧野陽子著『〈時〉をつなぐ言葉』には、この「草ひばり」を研究対象としては取り上げていないのですが、第六章 語り手の肖像―「耳なし芳一」 4 芸術家の肖像 の書き出しに、
 ≪ハーン晩年のエッセイ「草雲雀」には、最後まで美しい声で歌い続けながら命尽きた小さな虫に対する、しみじみとした感慨がつづられている。世の中には自分の命を縮めてまで歌を歌うことに励む人間の姿をしたこおろぎもいるのだ、とハーンは述べて、自分の姿を草雲雀に重ねた。・・・・・何よりも、そこに詩歌のありようと詩人・音楽家の象徴的な運命をみてきたからだろう。ハーンの芸術観がうかがわれる「耳なし芳一」もオルフェス物語のひとつの変奏曲であり、「草雲雀」と同様に一遍の“芸術家の肖像”の物語として読むことができると思うのである。そしていわば再話作家のマニフェストとして『怪談』の冒頭に据えられたのではないだろうか。≫
 とあり、このような視点での読みも試みました。
 引用文のなかの≪世の中には自分の命を縮めてまで歌を歌うことに励む人間の姿をしたこおろぎもいるのだ≫は、「草雲雀」の最後に出てきます。
 ≪でも結局、ひもじさのために自分の脚を食い尽くすのは歌の天分を忌まわしくも授かった者がめぐり逢う最悪の事態ではなさそうだ。世の中には歌うために自分で自分の心臓を食らわなくてはならない人間の姿をしたこおろぎもいるのである。≫
 と作品は締めくくられています。
 芳一は鬼神をも泣かせたという語りの名手です。ハーンも芳一のように人の心を震えさせずにはおかない再話が書きたい。死に至るそのときまで歌い続けた草雲雀のように。
 じっさい、「耳なし芳一のはなし」が掲載された『怪談』はハーンの亡くなる年の4月にボストン、ハウトンミフリン社から出版されるのです。
 ところで、この牧野陽子氏の著書のタイトル『〈時〉をつなぐ言葉』ということの意味がよくわからなかったのですが、「草雲雀」のなかで、私がどうしようもなく惹かれる部分、作品の中に描かれているハーンによって駕籠の中で飼われている一匹の草雲雀は、虫売り商人の店にある陶製のつぼの中で卵から返されたものでその後ずっと駕籠の中で暮らし、野外の生活をしたことがない。それなのに、見たこともない相手のために恋の歌をうたう。
 ≪しかし彼はおのれの種族の歌を幾千年、幾万年前に歌われたと同じように、そして又歌の一節一節の正確な意味を知っているかのように間違いなく歌っている。もちろん彼はこの歌を誰から学んだものでもない。その歌は生得の記憶の歌、―彼の種族の精霊がその昔、小山の露でぬれた草むらから甲高く夜に鳴いた時分の、何億南兆とも知れぬ同族の遥かな、おぼろげな記憶が歌わせる歌である。そういう古い時代にあの歌は草雲雀に恋と死をさずけた。≫
 この、それぞれの生物が、それぞれの生態を記憶していることの不思議を描いてみせる筆致、それと見てよいのだろうか。
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