『広島同和史 その1』
2014/09/17(Wed)
 比治山大学でのハーンの会に参加する日、その帰りに、市内の満田家に寄って、本を買って帰ることに決めていました。予定より5分遅れて旧市内の満田家に到着。家の前が広い通りに面していて、大きな家ですが駐車場がありません。何十年ぶりに逢った89歳の満田夫人は、すぐに本を持って出てきてくださり、夫を懐かしそうに見て、紙袋に入れたこの『広島同和史 その1』を渡してくださり代金はいらないとおっしゃいます。
 事前に、今月23日にお会いする金谷先生に、この『広島同和史 その1』を差し上げたいことを伝えていましたので、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいとうれしそうでした。
 この『広島同和史 その1』を書かれた満田隆氏は亡くなられて久しいのですが、教職のあと県職につかれていた方でした。そしてこの奥様は、広島市の教育委員会の社会教育課に定年退職まで勤められた方で現在では日本フォークダンス協会の会長をされています。夫は若い頃、職員である夫人と知り合い、そのご主人をも知るなかになり、この本を買いもとめて持っていたのでした。
 たまたま、わたくしが定年退職して5月だったかに、児童館勤務では大先輩のG先生と出合ったとき、「息子さんの開業しておられる満田循環器内科病院に罹っていて、教育委員会勤務のときお世話になったお母様の満田先生の話をするのよ」との話を聞いて、家の本棚にあったこの本のことを思い出し読んでいました。わたくしが読みさして家事をしている間に夫も何十年ぶりかに読み返し、中の「武一騒動」のことにこだわり、調べていくうちぐうぜん金谷先生の『武一騒動』に出会ったのでした。
 このたび、その金谷先生に会うのですから、ぜひ『広島同和史 その1』の「武一騒動」の記述の部分を精読しておかなければいけません。122ページから131ページがその範囲です。
127ページ抜粋
 ≪明治四年(1871年)八月四日、前藩主浅野長訓(長勲の父)夫妻が宇品から東京に移住することになった。城内(広島城内)の「竹の丸屋敷」をでて大手門を押し開いたものの、先頭の先払いが一向に動こうとしない。警護の武士たちが、「何事ならん」と門前を眺めて驚きあわてた。数万人の農民がムシロ旗をなびかせながら座りこんでいる。口ぐちに、「太政官は異人だ。お殿様東京に行かないでください。」と大声をはりあげている。この百姓の実力行使を見て城内は大騒ぎになった。なにしろ城をとりまかれたのは初めてのことだ。≫
 それまでの記述、江戸250年間のさまざまな農民一揆の解説や、新政府誕生物語もさることながら、まるで映画を見ているような読み心地で武一騒動を読んでいきます。
 武一が極刑の梟首((さらし首)になったことについての事情の把握は金谷先生の思いと一致しているように思いますが、農民が腹いせに、真っ先に道中の村の支配者である割庄屋、庄屋、県の出張所、などを狙って打ちこわしなどをやったが、各地、各村に散在する革田民家になだれ込んで乱暴狼藉、放火、惨殺をしたという記述は金谷先生の記述にはなかったように思うのですが、関東大震災のあとの朝鮮のかたがたへの乱暴のような状況があったのでしょうか。
 文中、山県郡千代田町観光課が発行している「千代田町観光案内書」の「武一は斬首された後、福島橋西詰めで、数日間梟首にされた」という断定的な記述に疑問を呈しておられます。これについては、23日同席させてほしいといわれた現北広島町の町会議員さんに尋ねることができるかもしれないと思います。

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