『雪女・夏の日の夢』
2014/09/20(Sat)
 ラフカディオ・ハーン作・脇明子訳 『雪女・夏の日の夢』を読みました。
 この本は岩波少年文庫563ということです。
 小泉八雲作関連の、今までの読書と違って、作者や訳者は誰?ということも考えずに、どんどん物語の世界にはまって読み進んだ本でした。小学校の5・6年生のころの読書体験はこんなものではなかったかと思われてもきます。
 掲載作品は、『怪談』から「耳なし芳一の話」・「むじな」・「雪女」・「食人鬼」、『骨董』から「お茶のなかの顔」・「常識」、『霊の日本』から「天狗の話」、『影』から「弁天さまの情け」、『日本雑録』から「果心居士の話」・「梅津忠兵衛の話」、『天の河奇譚』から「鏡の乙女」・「伊藤則資の話」、『知られざる日本の面影』から「東洋の土をふんだ日(抄)」・「盆踊り(抄)」・「神々の集う国の都(抄)」、『東の国から』から「夏の日の夢」の16作品です。

 広島土砂災害のあと、私たちにも自主避難の知らせがあり、本気で荷物をまとめたという体験をして、何かがリセットされたのでしょうか。夫と私の車に、飲み物、すぐ口にできる食べ物、タオル、歯ブラシ、・・・・、と考えて、これらのものだけを所有する生活を想像していると、「伊藤則資の話」のなかの
≪まったくの話、こうした静かな村にいると、管子の書に記されている永劫不変の暮らしの秘密を、目の当たりにしたような気がしてくる。「世界によって養われていた太古の人々は、何もほしいと思わず、世界には足りるだけのものがあった。人々は何もせず、すべての物は流転した。人々は深い淵のように静かで、落ち着きはらっていた。」 ※管子 中国で紀元前七世紀に活躍した政治家≫ が強く印象に残りました。
なぜ?と、自分に問いかけてもうまく表現できません。
 流転するすべてのものと、人間の営みの歯車がいつのころからか大きく食い違い、流転するすべてのものを、見失ってしまったのかもしれません。四里四方で、生活に必要なものはおおかた調達できていたのに、遠くより電線を引いてその電力なしには衣食住がまかなえなくなってしまいました。
 植物も人間が食べたいときに食べることができるように、流転するすべてのものとは違う育ち方をするようになりました。  しかし、これらのものは、太古からの自然が与えてくれるものなどでは到底たちうちできない、豊かな文明と文化を人間にもたらし、人間の数と寿命の長さは、他の生物をはるかにしのいでいます。
 災害の起こる最中には自然の営み以外の物音は聞こえないことを知りました。
 そして、山が崩れ落ちるといった災害を目の当たりにしたとき、わたくしたちは流転する自然のなかに放り出されたことを知りました。
 「伊藤則資の話」は、仕官できるつてもない有能な貧しい武士則資が、「風月を友として」ぶらぶら歩いていて、すっかり夜になったときにおこる不思議な物語です。舞台設定に用いられた物音一つしない鬱蒼とした木々におおわれた村の描写なしには、物語れなかったでしょう。このたび災害に遭った地域も、100年も前にはこのようではなかったかと思えてきます。≪高貴な人々が淋しい村を選んで屋敷を構えている≫といったところでは、やはりこのたびの災害の起きた安佐南区の八木から15キロ行った山中の、いまでは廃村になって誰も住まない丹原という有馬氏のいにしえの里を思い起こします。
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